鳥刺し(断章)

 〈遺構〉内部に吊された巨大な鳥籠の中にハトは横たえられている。
 効き目の強烈な眠剤を飲まされ、かれこれ半日近くも不本意な眠りを強いられてきた。覚醒のきわにありがちな、支離滅裂な悪夢から逃れようとして、ハトは眉間に皺を寄せて苦悶の声をもらした。
 やがて薬が切れると、頭痛の中で目をさました。冬のプールを想わせるどろっとしたハシバミ色の瞳が焦点を結んだ。ひたいにかかる亜麻色の柔らかな髪をかき上げると、ハトはおそるおそる周囲を見わたした。
 鳥籠は八畳ほどの広さの円筒形の構造物だった。鉄の心棒が同心円状に並び、天井の穹窿に向かってゆるやかなアーチを描いている。鳥籠の頂点には太い索具がつながれ〈遺構〉上部の天井から吊り下がっている。ハトは不安げに空を仰ぎ見たが、〈遺構〉の天井はあまりに高く、鎖の先が乳白色のもやにかすんで消えるのが見えるだけだった。
 ひどく喉が渇いていた。腹ぺこだったが、今は頭痛と喉の渇きが優先でそれほど切実な飢えを感じない。手首がずきずき痛んだ。剃刀跡のような疵から青ざめた血が滲んでいる。どこか鋭利なふちで切ったのだろうか。
 飲みものを探そうとふらっと立ちあがると、鳥籠がきしんだ音をたてて斜めにかしいだ。鳥籠は均一に張られた副索具で平衡が保たれるように設計されていたが、長年〈遺構〉内の湿った空気にさらされ、鎖の大部分が錆におかされている。錆止めのえんじ色の塗料がめくれて地金が露出した鎖は、いつ何どき負荷に耐えかねてちぎれてしまってもおかしくない。
 ハトは狼狽し、ひどくおびえてみずからの体を強く抱きしめた。
 気持ちが落ちつくと、ハトは意を決して四つん這いで動きだした。これ以上動きたくはなかったが、喉の渇きはいや増す一方だ。鎖が切れて鳥籠ごと落下する恐怖と闘いながら籠の中を調べた。
 床にはところどころ菰が敷かれている。誰かが寝起きした痕跡なのか、垢じみた黒ずんだ痕跡がある。干し肉の破片のようなものが、赤黒くへばりついているが、進んで触る気にはなれなかった。
 片隅に置かれている木箱を覗くと、古びた壜が並べてあった。壜の口は上を向けられ、中には小さなゴミや埃の浮かんだ水が半分ほど溜まっている。
ハトは壜に口をつけて一瞬躊躇い、壜の中に指を入れてかき回した。そして着ている粗末な布きれを二枚に重ねると、汚れた水を漉して飲んだ。濾過したところで味は泥水そのものだったし、お腹を壊してしまうかもしれないのに、ハトは無我夢中で黄ばんだ水を全部飲み干した。
 ここはどこなんだろう。
 〈遺構〉内は乳白色の濃霧でみたされ、視界が効くのは鳥籠の周辺のごくわずかな範囲のみだ。叫んで助けを求めてみたが、濃霧は雪のように音を吸収する性質があるのか、遮られてほとんど届かない。
 お願い。誰かわたしをここから出して!
 ねえ、誰か居ないの! 居るなら返事をして!
 ハトの悲痛な叫びは、防音室のような霧の中で空しく反響した。叫ぶと喉が渇き、また汚水を飲むはめになると気づくと、それ以上無駄な努力を重ねるのは控えた。

 〈遺構〉内にも昼夜の概念が存在しており、時間が経つにつれて乳白色の霧は明るさをうしない、ほの暗い夜の帳がおろされた。霧自体がわずかに蓄光性を持つため、夜半すぎまでは微かに周囲が明るく照らされるのだが、やがてその輝きも消えてぬばたまの夜が訪れるのだった。
 叫んだ反動からか、ハトは膝を抱えてうずくまると、薄墨を流したような夜の闇を見つめるでもなく見つめ、無情な時間がすぎるのをひたすら待った。
 きっと誰かが助けに来てくれる。
 この状況でもハトはそう信じている。この世界には自分しか居ないのではないか、という疑いが首をもたげるたび、気弱な自分を叱りつけて否定する。ありがちな恒常性バイアス。だが極限状況においては素朴な楽観こそが、ひび割れやすい精神を保護する強固な皮膜として働くものだ。
 その日は壜に溜まった汚水をちびちび飲んで、ひたすら物思いに耽ってすごした。ほかにすることもなく、漠然とした不安から逃れようとして、ひたすら楽しかった幼少期のことを考えた。軒先のカウチに腰をおろしてパイプをふかす父、マフィンの焼き加減を見定めるエプロン姿の母、ハトは愛犬とじゃれ合いながら、おやつが焼きあがるのを待ち、姉が紅茶をいれる手伝いをしようとキッチンに顔をだした。こぼれる家族の笑顔、朗らかな日曜日の午後……
 食べもののことが脳裏をよぎるたび、胃がずきずきと痙攣した。胃液が胃を溶かしているような薄気味悪い疼痛が絶え間なくハトの胸をこがした。マフィンでなくても構わない。今のハトにとっては食べられるものなら、腐った残飯だってご馳走だ。
 空腹も辛かったが、切実なのは尿意だ。空きっ腹を満たそうと汚水をがぶがぶ飲んだため、尿を溜めこんだ膀胱の重みで鼠径部がずきずきした。鳥籠のなかに便所はない。教育のある息女のつねとして野外での用足しを潔しとしない。
 健気に我慢を重ねたが、やがてそれも限界がきて抑えがきかなくなった。一張羅の下着をよごしてしまうくらいなら、と気恥ずかしいのを我慢して、鳥籠のへりに立ち放尿した。
 溜めに溜めこんだものを放出する快感に身震いしながら、ハトは乳白色の霧へ吸いこまれてゆく小便を眺めた。濃い橙色をした液体は血が混じってロゼワインの色合いで、明らかに健康に異常をきたしていることが見てとれる。
 ハトは衰弱する恐怖と惨めさで低く嗚咽をもらした。
 翌日は目覚めるのに時間がかかった。〈遺構〉内を吹きぬける風に一晩中さらされたため、関節を病んだ老人のような痛みがハトを苦しめた。それでも無理をして起きあがると、赤く泣きはらした目で景色を眺めた。誰かが救いに来てくれるのではないかと空しい期待をこめて。
 だが昨日までとまるで変わらない事実に打ちのめされ、渇ききった瞳がふたたび涙で滲んだ。
 飽きられたペットみたい、とハトは考えた。誰かの気まぐれで購われ、気まぐれで飼い殺しにされる者たち。檻の中で飢え渇くみじめな小動物。
家族を想い流した涙も涸れ果て、苛ついて咬んだ指の爪から三日月が消えた。栄養失調がハトの体を急速にむしばんでいる。このまま衰弱すれば、数日以内にその命の炎が燃え尽きるのは明らかだった。
 明くる日の夜明けを迎える頃には、立ちあがる気力も残されてなかった。ふしぎと空腹は和らいで奇妙に穏やかな気持ちだったが、手足が鉛を詰めたように重く、動くのがおっくうで目を閉じている時間が長くなった。
どこからか金槌で鉄杭を叩くような音がしたが、それももう幻聴なのか、本当に聞こえるのか区別がつかない。目やにでべとつく薄目を開き、焦点の定まらぬ目で〈遺構〉の中空を見据えては、ただその瞬間が訪れるのを待った。
鳥籠内で目覚めてから六日目の朝、うとうと微睡んでいると、突然ハトは強い動悸に襲われた。脈拍が早鐘を打ち、かと思うと突然脈が数拍分飛んだ。栄養失調状態が長く続いたため、血中のカリウム濃度が低下し、重篤な不整脈をひき起こしたのだった。
ハトは胸を抑えて干からびたエビのように丸くなると、痙攣してひくつくような呼吸を断続的に行ったが、やがてそれも途絶えた。

おい、と殻の外から声がした。
 ハトは虚ろなまなざしを声のする方へと向ける。
 幻聴ではない。正真正銘、自分以外の声だった。ハトの瞳に理性の光が戻ると、口を開いて助けを求めようとした。そこへ生温い粘液がどっと流れこんでくる。窒息の恐怖に慌てて口を閉じた。
 ハトが閉じこめられているのは、卵のかたちをした構造物だ。構造物の内側は羊水で満たされ、ハトは膝を抱えた姿勢でその中に浮かんでいる。
 声のする方へ手を差しのべると、構造物の壁に触れた。指先に触れたのは内膜だ。びろうどのようななめらかな感触の膜は、爪を立てるとたやすく破れた。だが、その奥の殻は固く、生なかな力ではびくともしない。
 ふたたび呼び声がした。ハトは無我夢中で殻の内側を叩く。叩いた箇所に放射状の亀裂が生じるが、決壊して中身が溢れ出るには至らない。もどかしさと息苦しさに、ハトは殻の内側をかきむしる。
出して! わたしをここから出して!
渾身の叫びは、どうにか外に届いたらしい。にわかに騒がしくなると、割れた外殻が一枚ずつめくられた。ハトは身うちの気力を振り絞るようにして、立ちはだかる内幕を引き裂いた。
そこへ複数人の腕が差しこまれ、腰や両腋を抱えるようにしてハトの体を引きずり出した。おびただしい量の粘液が構造物の外へあふれ出し、ハトは床にくずおれて喘ぐような浅い呼吸をした。粘液でふやけた手足は萎えきって、自重を支えることさえできなかった。
「良かった。まだ息があるわね」
 長身痩躯の少女がハトの脈をたしかめ、まぶたを押し開いて瞳孔の反応をたしかめた。そして後ろに控える少女たちを手招きした。
「アトリ、お湯を沸かしてきて。ツグミは手を貸して。風の当たらない場所に運んでやらないと、すぐ体が冷えきってしまうわ」
 少女の指図のもと、年下らしき二人の女の子たちが慌ただしく動きだした。
「怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
 やさしい言葉をかけられ、ハトは小さくうなずく。思考が麻痺して感謝の言葉さえ出てこない。こみ上げてくる嗚咽を殺して、生まれたてのひな鳥のように震えるしかなかった。

 毛布でくるまれ、差しだされたとろみのある白湯を啜ると、ようやく冷静にものを考えられる余裕が生まれた。助かったという実感が湧いて、胸に晴ればれとした喜びがみちあふれてくる。
「気分はどう?」
「だいぶ落ち着きました。あ、あの……」
 ありがとうございます、とあえかな声でお礼を口にした。鳥籠で目覚めてから初めて他人と言葉を交わしている。そう意識すると、妙に気後れして声が遠慮がちになる。
「目覚めてくれてよかったわ。なかなか嘴打ちが始まらないから、中で力尽きて死んでしまったんじゃないかって心配してたの」
「嘴打ち……」
「卵の殻を破って出てくるのを、そう呼ぶの。誰が最初にそう呼んだのかは知らない。私も先輩の子に教えられたし、その先輩も誰かに教わったらしいの」
 そう言いながら少女が天井を仰ぐ。
 鳥籠の中で卵の殻に包まれているハトを発見し、彼女たちはその孵化を見守ってきた。卵の殻に亀裂が生じたのが、かれこれ四日前。いつまで経っても中身が出てくる兆候がなかったので、やきもきして外から殻を叩いてみようかなどと相談していたところだった。
「私はモズ。貴女、名前はおぼえてるの?」
「わたしは……たぶん、ハト」
 ハトはおずおずと名前を口にし、その違和感に慌てて口をつぐんだ。本当にハトなんて名前だっただろうか。頭の中で名前を思いうかべるのと、実際に声に出してみるのとでは感じ方がまるで異なる。ハトと名乗ると、まるで他人の名前を軽々しく借用したような後ろめたさがつきまとう。
 ハトが黙りこくると、モズは謎めいた笑みをうかべた。ビジリアンブルーの瞳。想いを秘匿した薄紫の唇。病人特有の青ざめた皮膚はだらしなく弛み、腹水が溜まっているのか下腹部が大きく膨らんでいる。
「少し休んだ方がいいわね」
「平気です」
「だめよ。羽化した直後はまだ完全に体が出来上がってないの。興奮するのはわかるけど、今はおとなしく私の言うことを聞いて」
 モズになだめられ、ハトは鳥籠の床に寝そべる。モズが糞尿の染みこんだ菰でハトの体を包んでくるのには閉口したが、生まれたてのハトが体を冷やさないよう気を遣ってくれているのだと分かったから文句は言わない。なるべく口で呼吸するようにしてやり過ごした。

 〈遺構〉内で初めて他人と一夜をともにした。
意識が冴えきっていたので眠れるか不安だったが、実際は横になると一分と経たないで意識をなくしてしまったらしい。早めに眠ったのもあってか、ハトが最初に目をさました。
 落ち着いて鳥籠内を見わたすと、天井の一部が歪められていて、人ひとりが出入りできるほどの穴が穿たれている。モズたちはここから鳥籠の中に入ってきたに違いなかった。
 ハトは朗らかに屈伸した。手足に奇妙な充足感がある。昨日までのひねこびた手足に変わって、若くて新しい四肢が生えてきたような感覚だ。
 手のひらをかざし、まじまじと眺める。
 手首に刻まれた傷痕もかさぶたになって癒えつつある。
 あの人たちは何者なんだろうか。
 ハトは身を寄せ合うようにして眠る三人の少女を覗きこんだ。大柄なモズが、小柄な二人を抱き寄せるようにして目を閉じている。まるで雛を護る親鳥みたいとハトは思い、やさしい気持ちがこみ上げてきて頬をゆるめた。
「あら、早いのね」
 腫れぼったい目をこすってモズが体を起こした。
モズ姉さま、と少女の片割れがモズの衣服の裾を引っ張る。
「そういえば挨拶がまだだったわね。この子たちはアトリとツグミ。アトリの方がほんの少しお姉さんなのよね」
 双子が同時に会釈をする。一卵性双生児なのか両者の顔は生き写しだ。アトリはきょとんとしてハトを眺め、ツグミの方はハトの視線にたじろいでモズの背中に隠れようともじもじした。
「モズ姉ちゃん、この人どうするのさ?」
「モズ姉さま、連れて行くの?」
 双子に左右から問われ、モズは真剣な顔で小さくうなずく。だが、すぐに表情をやわらげると、せっかちな双子の頬を指でつんとした。
「気が早いわね。ハトは孵化したてなのよ」
「でも、ツバメみたくなったら困るし……」
「その話はしないで。ツバメのことは忘れなさい」
 モズがやんわりと、だが有無を言わさぬ口調でたしなめる。
「姉さま、お腹ぺこぺこ~」
「そうね。そろそろ朝ごはんにしましょうか」
 モズは着ているチュニックを肌蹴ると、太く垂れさがった乳房を鷲掴みにして双子の方へ差しだした。静脈の浮かんだ軟らかな乳袋をしごくと、熟した野苺を想わせる乳首から無数の白い水滴が滲みだした。
「いただきます!」
 アトリとツグミはモズの乳首に武者振り付き、ごくごく喉を鳴らして母乳を呑んだ。モズは夢中で乳に吸いつく双子を慈愛のまなざしで見つめ、二人の灰色の髪に指を通しながら撫でた。
 先にアトリの方が乳首から離れた。口の周りには牛乳を呑んだあとのような白濁の輪ができている。それをごしごし拭うと、
「ハト、こっち来て飲みなよ。あんたもお腹空いてるだろ」
「あら、もうよかったの?」
「あたしの分やる。姉ちゃんだっていきなり三人分の母乳は出ないだろ」
 アトリに手招きされ、ハトはたじろぐ。
 知り合ったばかりの相手の乳を吸うのは、どうしても抵抗がある。だがアトリが自分の分け前を減らしてまでハトに勧めてくれたのだ。お相伴にあずからないわけにもいかない。
 ハトは生唾を呑みこむと、勃起して固くしこる乳首をこわごわ顔の前に運び、そっと唇で挟むようにしてくわえた。
「いい感じ。でも歯は立てちゃだめよ。ゼリー飲料を飲むみたく頬をすぼめてチュってするの。ああそう、上手ね……」
 見よう見まねでモズの乳首を吸うと、滴り落ちる甘い母乳を呑んだ。
「どう?」
「おいしい……すごく甘いです」
 ハトは陶然と答える。孵化してから初めて口にする甘味にめろめろだ。さっきまでの遠慮もどこへやら、無我夢中でモズの乳房に吸いつき、出が悪くなると乳首を舌先でねぶってせっつく始末だ。
「もう、慌てないで」
 モズは身震いすると、妊婦のように膨らんだ腹部を掌底で軽く押しこんだ。するとちょろちょろだった母乳の量がふたたび増した。
 追加の母乳をぺろりと呑み干すと、ハトは恍惚とした面持ちで乳首から離れ、小さくけふとゲップをした。ハトの吸引が強すぎたのか、モズの乳首は内出血して紫色のあざができている。
「ご、ごめんなさい」
「いいのよ。お腹は満たされた?」
 ハトはうなずき、モズの肥大化した腹部を見つめた。表皮が引き延ばされて妊娠線が浮かび、内側から押し出されたでべそから、透明な汁が滲んでいる。
「モズ、貴女のそのお腹……」
「ああ。もしかして妊娠してると思ったのかしら。このお腹はね、胎児ではなくて肥大化した乳腺なの。触ってごらんなさい」
 手のひらで触れると、モズのお腹の中で母乳がちゃぷんと音を鳴らした。固い妊婦の腹とは明らかに異なる、大量の液体が詰まった水腹だ。
「長旅になると思ったから、作った母乳をすべてお腹に溜めこんだの。栄養は私が溜めこんで、アトリとツグミに与えるようにすれば、余計な荷物を担いで飛ぶ必要がなくなるから」
 ミツツボアリみたい、とハトは思った。子供の頃、テレビの自然番組で観たことがある。砂漠に棲息するハニーアントと呼ばれる蟻たちは、厳しい環境で生きのびるため、お腹の中に大量の蜜を溜めこんでそれを仲間に与えるという。
「メジロという男が教えてくれたの。私の体は乳腺が異常発達しているから、分泌した乳液を体内に貯蔵すれば長時間の飛行にも耐えられる。上手くすれば、ここから出られるかもしれない、と」
「この鳥籠から?」とハトが尋ねる。
「……この〈遺構〉からよ」
 モズは眉間に皺を刻んで沈痛な面持ちをした。(未完)


書きかけの断章です。

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