アタラクシアの夜の果実

アタラクシアの夜の果実

円い錠剤の形状(かたち)をして

奥歯で噛むたび苦くえぐみの滲む林檎の種子を

布団に這入る前一粒ずつピルカッターで砕き割って

舌で巻きとるようにしてごくり呑みくだした

シトラスシャンプーの香る枕カバーを眠れないひたいでぐいぐい推した

胃に調和がもたらされるまでのあいだ

すると

たおやかな家具の音楽が、芳醇な年代物の林檎酒がなみなみと注がれだして

耳の水位までひたひたと浸透した 

重厚な北欧が心の奥でひしめき合い 囲繞し わたしの胸を圧迫し

焦点を結ばない時間が遠ざかる洪水におし流された

わたしとあなたは液状化した林檎の軽やかな重力にひっぱられて

この惑星の中心へとつれさられる

月下のバラッド

月の下男たちはウイスキーで 

武装する夜気の垂れこめる沙漠の夜はあまりに 

肌寒く酒抜きではとうてい遣りきれない

酒壜の封蝋をナイフの刃先でそぎ落としきつく

締まったコルク栓を歯で噛んでひっこ抜く男たちは

鼻孔をくすぐる鼈甲色の液体で砂っぽい喉をゆすぐ

空腹の肚にアルコールの火を焚き入れきつく目を閉じ

酩酊の熱を感じながら脂が白く凝結した羊肉を食べ

チーズとライ麦パンで空腹を満たし酒と食べ物の混淆が

胃の底でとろとろと眠気をもたらすまで老齢の旅仲間の爪弾く

ギターの音色が宵闇にひびく夜は流動性をうしない星空が

凝縮してざらつき幕営地のテントが砂風に吹かれてしなり

細かな雨粒の鳴るような音がしたそれは明け方まで続く

懸想

あなたの肌のクチクラ層へ

僕の唇は千枚通しの役目を果たした

貫かれた心臓は毀たれたことばを拾いあつめ

夜ごと囁かれた睦みごとの断片は其処ここに散乱し

たおやかな愛情を帯びて大気中で摩擦を起こし

激しく赤熱して

そこかしこに脈打ち

燃え尽きてなお癒えぬ遺灰にぬくもりを残した

あなたの血肉を味わうために あたらしく造形された夜を想い

僕は幾千ものいびつな朝を乗り越える

色を喪失した病室

 色を喪失した病室に横たえられ、わたしは天井を凝視した。

二等辺三角形を重ね合わせたような天井の幾何学紋様は、人の精神をかき立てる不実な要素があるのか、わたしは落ち着かずそぞろ体を起こした。
 多量のモルヒネで抑えこまれていた手首の痛みが閾値を超えて跳ね、苦痛のうめき声を洩らした。

脳天へ突きあげる強烈な痛みは、創口よりむしろ無事だった体内の奥深くから発せられるような気がした。包帯を巻かれた左腕を見る。

手首から先が不自然に丸めてある。神経がずたずたにひき裂かれ、

とうにわたし自身とは無関係になったはずのわたしの手の感覚が幻肢痛として感じられる。そうか、これがそうなのかと念押しするようつぶやく。
 この先死ぬまでこの痛みと付き合ってゆくのだからと、

しばらくやせ我慢をしてみたものの、切断された手首の痛みはますます耐えがたく高じて、

わたしは脂汗を垂らし口を半開きにし情けなく喘ぎながら枕元のナースコールをまさぐった。

頭皮の汗が滲んだ枕シーツの隙間に小さな押しボタン式の装置が隠してある。本来ベッドに設えてある装置がはずれてしまったのはわたしが無意識に弄ったのか。あるいは同室の入院患者が、

意地悪なナースが過失にならない範囲で隠したのか。安全な場所からわたしを観察する卑怯な敵。そう、やつらはこの病院のどこかに潜み、

今もよこしまな笑みを浮かべてわたしが苦しむさまを監視している。

失意

君のスープを温める者はいない

君の奪われた靴を

取り戻してくれる者はいない

なにを期待すべきだったのか、そして

なにを期待すべきではなかったのかを問いつめても

明確な答えが返ってくることはなく

ただ氷壁のみがその厚さを増してゆく

窒息

窒息する/窒息しかけているのを

僕らは身をひそめ手足をちぢめ確認する

呼気に含まれる酸素は高価く、僕らは

なけなしの貯金を切りくずし

かろうじて生きるに足るだけの呼吸をする

肺胞に幾ばくかの酸素を輸送り だがそれは

つぎにやってくる新たな苦痛の呼び水にすぎない

息継ぎのたびかさんでゆく借入金のため

鳴りやまぬ督促の電話のため

僕らの息の根はか細く窄められてゆく

いつの日か喉に絡みつく末期のひと息を使い果たしたのち

すべての鋭利な利息が人生を押しつぶし

土の下にたしかな安息が訪れる

のけ者

孤独なのけ者

住む家をもたない 着る服をもたない

慈悲をもたない 愛する心をもてない

彼は食べるためなかばの暗い森をうろつく

煮炊き火の宿る里をうろつく 苔むした塁壁の城址をうろつく

歩みはのろく 行くあてもない

彼は恃めるなかまをもてない 彼は誰かと出会うための服をもてない

裸で歩き 裸で考え 裸で眠る

積み重ねすぎた孤独のため、なかまと食べものの区別がつかない

彼はなかまのケモノの肉を喰らう

皮をひき裂き 肉を啖い 骨の髄までしゃぶる

ときどき彼は心穏やかに保とうとして地にひれ伏しひとり祈る

のけ者のおぞましい声は 色のないモノロオグとして

無人の森のしじまに 木立のざわめきに溶けこんでゆく

彼はひれ伏し満たされるのを待つ

満たされないという事実に満たされるまで ただ ぢっと待つ

鉄橋

囀る鶯が影絵として鉄橋を照らし

蛍火の流るる街辻

おまえの息は色を銀に曇らして弾む襟巻の

毛先には埃として 雪

抱き合うのか?

橋の上へ

濁るドブ川の底へ すべり落ちる銀箔の雛

靴はそろえて

靴はもう脱いである

靴は

恋愛環

虹色の油が浮かんだ水溜りの傍らで泥をすする

泥すすりは丁字路に這い蹲ってアスファルトの窪みに舌先を伸ばし

自動車油の淆じる水をじぶじぶと舐めた

僕の劣情を差し入れると

水飴のような唾液が煮こごりの愛となって暴発した

草むらの廃村から香る枯れ草が絡んで朝も夜も関係なく焼け落ちる患部

こうして営まれた日ごとの愛が重なって

数千日もの基底レイヤーを形成してゆくうち

僕らの内がわから本当の家族と呼べるものがあらわれた

それは一児の母となる彼女が やがては石や岩を噛んで

鋼の体を持つ我が子を育て上げる確信として

頑ななまでに信仰し かつ存在する紐帯なのだ

君が口から取りだしたべとつくかぶとむしを

僕は生涯いとおしむと決めた

その光沢のあるキチン質の君の舌苔の混じる唾液の

血痰と胃液のまりあーじゅの中にこそ

僕らの共同生活が築かれるべきだ

そこからが僕らの新しい朝が生まれるべきだ

すべての恋の群生相

汚穢と粘液としての小宇宙

枕に広がる黒髪にまぶされた情熱と埃

夜ごとの睦み しとけなくだらしなく交わされる唇のかさつき

ざらつくささくれを唾液でぬらした

黒蜜味のそれを

戦災

降りしきる鉄の泪

僕らの肉体にうがたれた無数の孔からは

あふれだす乳液

手傷をおい斃れるものたちをなぐさめうる

おまえを囲ういくつもの記念日