一灯貧女アラインメント

あらすじ

胎内に火を宿す少女メグリは、姉と共に陸奥の色町へと売られる。やがて遊郭〈白檜〉の学者楼主〈痣の先生〉に育てられ一人前の火妓女(ひぎめ)として新造デビューを果たしたメグリは、ひょんなことから姉の自殺の真相を知ることになる。第七官界を彷徨う少女のたおやかな喪失と生活。

本文

 腕こきの女衒というのは娼婦から好かれるもので、というかたらしだからこそ女衒で食っていけるのだ。私の雇い主である痣の先生が私たちをただの商売道具としてしか見ていないのは慥かだが、それでも私は先生が好きだった。
 先生の顔には眉間から鼻梁にかけて奇妙なかたちの痣がある。痣は皮膚のタアンオバァによって巧みにかたちを変える。なんでも関東軍の特務機関で働いていた頃に培った技術らしい。痣は四季とりどりに色とかたちが変化し、夏にはうすく褐色にくすみ寒くなると傾き者じみた鮮烈な真朱色となる。
 そんな楼主のもと、白檜では体内に可燃性を具有した子らが客をとって春をひさいでいる。火妓女(ひぎめ)と呼ばれる彼女たちはその特殊な体質ゆえに所属する共同体でさまざまな齟齬を来し、やがて家庭に居られなくなってこうした場末の娼窟へと流れ着く。痣の先生は全国を渡り歩いてそうしたみなし子をかき集め、火妓女として教育し、男に抱かれるひとつの熱源として郭へおろした。
「先生ときたら炊事洗濯その他諸々からっきしでね。得意なのは房中術くらいで、それだってその辺の女衒の和合に比べたら下手くそな部類さ」
「だったら、どうして白檜へ留まるんです?」
「決まってるさ。僕は先生が好きなんだ」
 お職のユウジンが柱へもたれて長煙管をふかした。屈強な炭坑夫を相手してさんざっぱら膣をこすられホト内が過熱しすぎてしまったので縁側へ冷ましに出てきたのだ。渋団扇で股ぐらを扇ぎ、戯れに水さしの水を濯ぐとじゅっと音を鳴らして性臭の湯気が立ちのぼった。
「あんたバギナを擦りすぎよ。ハズしすぎてんの」
「へっ、気を遣らないで客を騙くらかすのは僕の性に合わないね。だいたいなんだバギナだなんて。横文字使ってえらく気取ってら」
 二枚目のアマネに冷やかされ、ユウジンが舌打ちした。そして着物の合わせをがばっと開き、乳牛のような肥大化した乳房を揺らして氷嚢をホトへ押しあて、
「そういやメグリもそろそろ頃合いだね。あんた初火は垂れた?」
 年増火妓女の露骨な言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。女同士の気兼ねのなさが、このようなぞんざいな口調へ結びつくのは承知しているが、それにしても気恥ずかしい。先日、厠へ立ったときそれらしき痛痒を下腹へ感じたので、痣の先生に伝えたとうわずった声で説明した。
「おお、そいつはおめっとさん。で先生はなんて?」
「火が落ち着いて熾火になったら客をとらせることになると」
「朗報だ。ミシロの年季が明けてから、白檜の張見世もずいぶん素寒貧だったからな。アマネみてえな年増女の雁首並べたところでろくな客がつかねえ」
「誰が年増だよこのあま。こちとらまだ二十二歳だっての」
「ぬかしてらあ。初潮迎えたての子にしたら充分お局様だわな。メグリ、あんた水揚げの前にやることやっておくんだよ。処女を好きな男にくれてやる機会なんざ、一生に一度きりなんだからね」
 ユウジンが結露した股間を手拭いで叩き、通和散を指で掬ってホトへ塗りたくる。一晩に何人もの男たちの火吹き棒を出し入れするので、こうして愛液の増粘剤を入れて保湿してやる必要があるのだ。この通和散をチュウブへ詰めるのが、おかむろ火妓女である私の務めだった。
 アマネとユウジンは私が淹れたたんぽぽコーヒーを茶碗にがぶがぶ呑み、ホトが冷めきったところでお呼ばれして次の客のもとへ赴く。女郎部屋では怠惰な海獣のごとくぐうたらな女たちが、指名が入るとたちまち乱れた着衣を整え、鏡の前で白粉をなおし、ものの数分で見目うるわしい花魁へと変貌する。何度見ても奇術士の如何様めいている。私もまた遊郭の末席につらなる者として彼女たち妖怪変化の技術を盗み自家薬籠中とするべく熱心な観察を怠らない。
 二人と入れ違いに先輩のツグが戻ってきた。こちらは客がつかなくてお茶を挽いているらしく、番台のおやじから失敬した安酒を嘗め、もともと赤い頬を林檎みたく真っ赤に染めている。
「ツグ。盗み酒なんてしたら先生に叱られるよ」
「今宵も股へ蜘蛛の巣張るわが身のなんと淋しき」
 酒臭い息を吐き、べべんと三味線を口で真似ると、ツグはぽてっとした烏賊腹をさする。歳不相応に幼女体型のツグは太客が少なく、夜見世のたびに無聊をかこち気味だ。ホトの未熟な火妓女は和合が難しく、膣温度が上がりすぎて男の火吹き棒が焦げつくことがあるため炉利好事家(デレッタント)以外からは指弾されがちだ。いつの時代も男は肉置きのむちっとした床上手な女を好むもの。私やツグのような炉利派火妓女は格子壇上の指名争いにおいてはがぜん不利だ。
「メグリ、暇ならあたいのぷに穴でも慰めておくんなまし」
「ヤですよう。女同士なんざぞっとしない」
「つれないなあ」
 そっちの気のあるツグは私を執拗に誘ってくるが、あいにく私は凹凹の観念連合とは無縁である。ましてや売れ残った火妓女の煮えたぎるホトを嘗めて舌を火傷するなんざまっぴらだ。
 以前ならツグのお相手は同室のクルルの仕事だったが、半年前、クルルは好きな客と駆け落ちして橋の下で心中した。限界を超えて性交を重ねて膣温度を高め、袋詰めのメタン瓦斯を吸って自爆したのだ。
「ククルは火妓女としては三下だったけど、がさつ揃いの白檜では珍しく繊細感受の持ち主だったのよね。あの子は腹巻ンなかでかいわれ大根育ててね。ホトの熱とお湿りが野菜を育てるのに適してたのか、よく育ってた」
 女陰産野菜というのは衛生面で問題がある。ただでさえ蚤や虱で悩まされているのに、そんな因業なかいわれ大根誰が食べるものか。
「それが食べたがる物好きな殿方は結構居てねえ。年季が明けたら農家に嫁ごうかしらなんて云ってたのに、それなのにあの娘ったら血迷って……」
 ツグはすんと湿っぽく鼻を鳴らした。
 茶碗になみなみとたんぽぽコーヒーを濯いでやる。ツグはすみれの花柄のスプーンで角砂糖を突き、親水してさらりと崩れるざらめが茶碗の底で舞うのを放心して眺める。顔つきはあどけない童女ながら、発する雰囲気は場数を踏んだ娼婦のそれで、その歪な落差がツグの発するえぐみの正体だ。
 ふと下半身にずきっと突きあげるような鈍痛を感じて、思わず手にしたお盆でお腹を隠した。
 厠へ駆けこむと、干瓢みたいな小袖の帯をゆるめ、おなじく洗いすぎてへろへろの湯文字の裾をぺろんとめくる。毛の疎らなホトの割れ目からころころした熾火がこぼれだし、熱された生地が黒ずんでいる。へたに弄ると火傷するから、冷めるまで厠でやり過ごすことにした。
「メグリ、アンネはあるの?」
 私が言いよどむとツグが隣の個室から石綿のナプキンを投げてくれた。
「おかむろの下着は難燃性じゃないから燃えるのよね」
「助かります。なかなかとまんなくて」
「最初はね、誰しも戸惑うのよね」
 時すぎてかれゆく小野のあさぢには今は思ひぞたえずもえける。
 ツグはメロウな炉利声でそう吟じるが、文化資本の乏しい私なんぞでは気の利いた返歌が浮かぶはずもなく、やや長めの排泄のせせらぎののち厠から出て行く気配がした。
 私は秋枯れの萱のごとく燃えあがる下腹部へアンネをおし当て、おんなになる悲しみを抱きしめしばらく泣くことにした。

 痣の先生の書斎は白檜の離れにある。無節操に増改築を繰りかえした遊郭の腫瘍めいて膨らんだ一角にある書斎は、先生が女を買いつける旅先で購った書籍や古地図などが汗牛充棟し、その重みで建物全体が著しくバランスを欠いている。反対側の客間で客と火妓女が汗を流して助平に励むたびに、一種やじろべえの要領で建物が前後へ揺れ動き郭全体がぎしぎしと音を鳴らしてしなるのだった。
 よく磨かれた廊下はことに辷りやすく、私は香不和を淹れたお盆を覆水するまいぞとオットトとたたらを踏んで堪え、堪えてはたたらをふんで壁に手を突き、どうにかこぼさないで書斎の引き戸の前まで来た。
「先生、お茶の時間です」
 返答がないのを訝しみ戸を開けば濛々たる白煙が吹きだし激しく噎せた。六畳一間の書斎は天井まである書架に囲まれ、大量の書物で埋めつくされている。その書棚の隙間に嵌めこまれた文机の前で、作務衣姿の先生があさひをスパスパ吸ってはアアだのウウンだのと苦吟している。先生の周囲には大量の書き損じの反古がまるめられさながら紙くずの海だ。初潮の火が収まらぬ私なんかが不用心に踏みこんだらお次はたちまち火の海である。
「先生、もう先生ったら」
「ン? ああ済まない。考えごとをしていてネ」
 痣の先生は嘆息し、オノトの万年筆を放りだした。風俗業界誌の埋め草として宣伝エセーを依頼されたのだが、もともと筆無精の先生、二つ返事で引き受けたはいいものの書けども書けども納得のゆく出来にはならず、頭皮をかきむしっては怨嗟を漏らし、ここ数日は原稿用紙を引っかくニブもひん曲がる始末で、どうにもこうにも万策尽き果てやつれ気味である。
「あまり根を詰めるとお体にさわりますよ」
「そうは言うがねメグリ。こちらが悠長な態度を決めこむと編集の野郎がせっついてくる。先生で最後なんです先生が走らないと輪転機だって走ってくれませんなどと泣き言じみた電報を打ってくる。こう五月蠅くちゃおちおち昼寝もできん」
 先生はぬるめの香不和をごくごく喉を鳴らして飲み、つけ合わせのシナモンスチックを囓った。私たちが愛飲するたんぽぽコーヒーのような紛いものとは違う、本場亜剌比亜世界から輸入した香不和だ。
「カップをお下げします」
「む。悪いね。女の子たちにカヘエの女給みたいな真似をさせるのは心苦しいんだが、今はやむにやまれん。このまま誌面に穴を開けようものなら、腹いせにどんな罵詈雑言を書かれるかわからんからな」
「白檜の評判が落ちたら困りますね」
「要らぬ恨みを買って夜道で後ろからブスリとされかねん。まあ女衒なんて宿世の因果業は刺されるのも仕事なんだが、あいにく僕は血が苦手でね」
 先生はしかめ面をする。痣名の由来たる痣はここ最近のひしひし迫る筆荷で平べったく伸ばされ、縦横無尽に飛散している。さながらプロレタリア文学の闘士かインディアンの老酋長のごとき苦み走った面構えである。
「それで先生、私の水揚げについてですが」
「ホトの出血は?」
「まだ多少火を噴きますが、おおむね落ち着いてきました」
 先生は無精ひげを生えちらかしたあごを撫でると、
「どうしてまた、そんな早く客を取りたいの?」
「それは、その」
「あれかね、カネが入り用なのかネ?」
「や、特にそういうわけでは。もちろんあればあるに越したことはなく……」
「ふーむ」
 先生がロイド眼鏡ごしに私をじいっと凝視する。黒目がちのつぶらな瞳。なんだか落ち着かない気持ちにさせられる。先生にとって私は大事な商売道具だから、道具の調整具合をたしかめるのは当然ではあるのだが。
 しかし内面の迷いを見抜かれてしまった。客をとって男と同衾する覚悟は固めてきたつもりだが、いざ実際にそうなると尻込みする。覚悟のための覚悟が必要で、そうしたネストの覚悟についてはまだ軟らかいままだ。
「おぼこなら最初はおそろしかろ。まだ火も収まってないんだし、そう急ぐこともあるまいよ。おまえさんはおかむろとして、充分立派に働いてるし役立ってくれてるんだからね」
 それにその矮さなホトじゃあ痛むよ、と痣の先生が気の毒な顔をする。私がツグ同様炉利派に属する火妓女で、肉置きが貧弱なのを案じているのだ。下手な男とまぐわって破瓜の激痛に泡吹いて失神でもされたら大騒ぎだと。
「マア先は長いんだ。LifeGoesOn、なるようになるサ。そのうち常連に水揚げの誘いを出すよ。そうすればメグリのような我利我利炉利を好む酔狂もあらわれるから、布団を敷くのはそれからだって遅くない」
 そう言って私の勇み足をたしなめる。
 白檜の楼主がそう云うのなら反対する理由もなく、私は小さくお辞儀をして書斎を辞去した。胃弱な先生は香不和の飲みすぎで荒れた胃粘膜を労るべくタカヂアスターゼを三錠火鉢の白湯で飲みくだし、ふたたび醒めぬ悪夢のごとき原稿用紙の海へと潜水した。
 しかしまあ、果たして私の処女喪失はPendingなのかSuspendなのか知ら、などと先生風に気取って考えるうち格子女郎が続けさまに客を取ったのか郭が傾きだし、考えごとに夢中だった私は足を辷らせて団栗よろしく転倒し、中庭の池へ頭から突っ込んだ。
 口の中へ詰まった藻を吐いていると、どこからともなく手鞠歌が聞こえてくる。あんたがたどこさ(チゴさ)ちごどこさ(ムナモトさ)むなもとどこさ…リンバさ、と私は聞こえない声で小さくつぶやく。竹垣を挟んだ向かい側の邸宅は由緒ある武家屋敷で、そこの六つになるお嬢さんが婆やと軒先で鞠をついて遊んでいる。
 その済んだ無邪気な唄声は、どこか姉のミヤコを彷彿とさせる声で、胸のふたがれれる想いで歯を食いしばると、ふたたび下腹部に月の痛みがきざしてずきずき疼きだした。

 再三の事業の失敗から家庭では生活苦が続き、それで私と姉のミヤコが白檜へ売られることが決まった。使用人のハダさんが、ほんにお嬢様がたはお可哀想だ、旦那様はむごい仕打ちをなさるとたびたび口にするから、私も姉もひどく気が塞ぎ、鬱々とした日々をすごした。
 そのハダさんも暇を出され、それから数日後にウレノ発の夜行列車に乗ると、ようやく一切合切解放された気がしたものだ。真実はその逆なのだが。
 胸にこびりつく膠質の鬱気を紀陽軒のシウマイ弁当で流しこみ、鳥井のみねらる水で喉のつかえを濯ぎおとしたところでようやく列車旅の華やぎを獲得し、人身売買の陰気な旅にもひとさじの旅情が射しはじめた。
 特急列車の車窓の風景に私は無邪気にはしゃぎ、同伴の伯母から何度となく小言を言われた。シラーの関を超えて陸奥へ旅するのは初めてだったから、どうにも浮かれ気味だった。かたや事情を知る姉は沈鬱な面持ちを崩さず、伯母が途中停車の駅のボイから買い求めたモリトの牛タン弁当も副菜のお新香をかじる程度で、姉の分の牛タンまで私が胃の腑へ収めた。
「ミヤコねえさま、お腹が痛いの? ご気分がすぐれないの?」
「大丈夫よ。メグリこそ食べすぎてない?」
「私は平気、へっちゃらです」
 実際は過食で気分が悪かったのだが私以上に顔面蒼白な姉をみているととても言い出せず、夜中に気分が悪くなって吐き戻してしまった。脂汗を垂らし、揺れる列車の厠で線路に向かって嘔吐する。俵に固められた白米が粥となって滴り落ち、溺死したうじ虫の群れのような牛タンの破片がおぞましくてまた吐瀉した。
 途中駅で國鐵から満鐵雫石線へと乗換し、田沢京まで移動する。国境の街は警備が厳しく憲兵の姿がちらほらある。多国籍軍の空爆でどろどろに溶解した海防砲台のカノン砲が生々しい。ほんの数年前までここは戦地だったのだ。
 田沢湖を囲むようにして発展する田沢京は陸奥最大の都市だ。防空壕内の地下都市(メトロポリス)は私たちのような非市民の東京者は立ち入れないが、地上部(アクロポリス)であれば非敵性トークンさえあれば立入は可能だ。
 約束では痣の先生が迎えに来るはずだったが、軍の検問で手間取ってるとの連絡が電話交換手から言づてされた。駅舎内で待とうにも石炭不足でストーヴがとめられ、待合室は歯の根が震えるほどの寒さだ。
 仕様がないね、あんたたちミルクでも飲むかね、と伯母が駅前のミルクホールへと連れて行ってくれた。今思えば吝嗇家の伯母が、このような気前の良さを発揮したのはこれが最初で最後だった。
 黒蜜を垂らしたミルクを嘗めていると年代物のダットが停車し、やぎ革の手袋をした初老の男がステッキをついてこちらへ向かってくる。山高帽を脱いで恭しく一礼したので、私も目を伏せて挨拶する。
「やあ、お待たせしました。まったく強情なやつらで参っちまう」
「大丈夫でしたか?」と伯母が不安げに尋ねる。
「なに、こちとらこれが商売ですからナ。莫迦正直に娘を買いに来たなんてことは云いませんからご安心なさい」
 痣の先生は朗らかに笑い、ダットの後部座席のドアを開く。車内はかび臭く紙巻煙草のやにが付着し、天井からシートからべとべとした。
 駅から赫線区まで先生の運転でのろのろ進んでゆく。木炭駆動のダットは音がやかましく、大量の黒煙を排気して進むため乗り心地は最悪だ。やがて色町の屋根が見えはじめ、近づくと身位の低い私娼たちが街辻で私たちに手を振ってくる。伯母が露骨に眉をひそめ、死生堂のオイデルミンをハンケチに数滴垂らしそれを鼻へ押し当てすうはあする。売女の毒を吸って鼻が落ちぬよう、年配の女性は色町へ用事があるとこうして黴菌空気から鼻を護るのだとのちに教えられた。所詮、そんなのは根拠なき迷信なのだが。
 白檜の前で停車した。天然カラアの絵本で目にした浅草凌雲閣のごとき大正モダーンな洋風建築だが、この頃すでに先生の書痴がこじれて書斎の重みで建物全体が歪みつつあった。老母を背負う楢山節のごときその歪曲した姿に屋号の由来である白檜のような優美さはなく、どちらかというと大朝のテングシデのごときバロックの味わいの方が勝る。
「狭いところですが、ささ、どうぞ中へ」
 先生がノッカーを叩くと、この頃はまだおかむろだったアマネが走ってきて挨拶をし、先生の上着とトランクを受け取った。
 私と姉は玄関先で逡巡し、つま先をそろえて立ち止まる。
「ほら、早くおいでよ。人様へご迷惑をかけるんじゃない」
「ねえさま」
「行こ、メグリ。もう来てしまったんだものね」
 姉が私の手を強く握る。緊張で汗ばんでぬめるが、振りほどこうとするとさらに強く握ってくる。伯母は相変わらずハンケチを顔に押し当てたままで、早くこの場を離れたい一心からか、契約なら駅前のカヘエで充分でしたのに、と嫌味たらしく言う。マア人聞きのよい話でもありませんので、と先生はお愛想し、有無を言わさず談話室へと案内した。
「あんたたちはこっちへおいで。妓楼ンなか案内してあげる」
 伯母たちの商談中、アマネが白檜の施設を見せてくれた。火妓女が並ぶ見世の格子や、朝風呂を浴びるための湯屋、客を歓待する奥座敷。そして当時お職だったミレエ姐さんへ面を通した。
「お職?」
「うちでいちばん売れてる火妓女のことよ。あんたたち、ミレエ姐さんに逆らってはだめよ。きっと虐められてここへ居られなくなるんだから。過去に何人もそうやって破滅したのよ」
 アマネがわざとらしく怖い顔をするが、姉の目が笑ってないのを見てそんな顔しないで冗談よ、と笑い飛ばした。
 一通り用事が済むと、最後に私たちが寝起きする個室へと案内された。女郎部屋の奥の八畳ほどの洋間だ。ベッドと簡単な化粧台があるだけの独房のような雰囲気の部屋だ。どの窓も嵌め殺しの鉄棒がおろされ、布団やカーテンなどの生地は不燃繊維でできている。子宮へ火を宿す火妓女は意識無意識を問わずぼやを起こす可能性があるから、郭では防火対策が徹底されている。例外は大量の書物を擁する痣の先生の書斎くらいだ。
「ごめんね。まだリコの私物が残ってて。すぐ片付けるわ」
「リコ?」
「つい先月、燃え尽きちゃった子。良い子だったんだけどね。年季を終えたい一心で欲かいて、胎の火が暴走するまで客取って。あの日は六人くらいに抱かれたのかな。べろべろに酔って股から火ィ吹いて、青年団や消防組まで出動して上へ下への大騒ぎよ。最期は火だるまでヤケクソ撒き散らしてね……」
 子宮が熱暴走を起こすと骨盤内の筋繊維が緩みだし、しもを垂れ流して焼死する。それを防ぐため火妓女は客を取るたびに下腹を冷やしてやる必要があるのだが、泥酔するとそうした基本動作が疎かになりがちだ。
「……」姉が唇を咬みうつむく。
「あんた顔色悪いわね。大丈夫? 」
「ええ、有難う。お気遣いなく」
「事情は聞かないわ。ここへ売られてくる娘はみんな脛に傷持ってンだから。でもくよくよしてちゃだめよ。どのみち火妓女なんて長くないんだし、太く短く楽しまなくちゃ」
 落ち着いたら女郎部屋へおいで、たんぽぽコーヒーを淹れてあげると言ってアマネは立ち去った。二人きりになると姉は糸が切れたみたくベッドへ突っ伏した。よそ行きの一張羅が皺くちゃになる。ねえさまお着替えを、と私が揺さぶるが、姉は枕へ顔を埋めたまま無反応だ。
 ふとマットレスの切れ目に紙片が埋もれているのを見とめた。ぼろぼろのウレタン屑と一緒に出てきたのは、鉛筆で走り書きした四つ折りの便箋だった。
「ねえさま、お手紙入ってた」
 難しい漢字が並ぶ手紙は、幼い私には難しすぎて判然としない。姉は虚ろな目でその手紙を読みはじめたが、すぐに夢中で目を走らせ、口を抑えて瘧にやられたみたく身震いし、引き絞るような嗚咽を漏らした。
「ねえ…さま?」
 姉は目をきつくつむると、その手紙を細く筒状に丸めて服を脱ぎ、露出したホトの割れ目へと静かに差し入れた。そして子宮の熱で手紙を燃やし、メグリ、今の手紙のことは誰にも話してはだめよと固く口どめした。
 伯母が帰宅したあと、私たちは旅の疲れをとるため夕食の時間まで仮眠をとることにした。私は心底へとへとで布団にくるまるとたちまち眠気がきざした。ふと思いだし伯母が別れ際に渡してくれた紙袋を開くと、中から根付がふたつ出てきた。愛宕神社の火防の御守だ。今さらこんなものと思ったが、あの伯母にも人間らしい一面があったのだと思うと捨てるのもしのびない。根付は今でもナプキン用ポーチの底へ二つ押しこんである。
 そのうちに眠ってしまったらしい。夢も見なかった。躯が綿になって布団の繊維と絡みあうような心地で熟睡し、ふと一時間ほど眠ったところで大きな落下音がして目をさました。
「ねえさま?」
 床にうずくまるようにして姉が倒れている。ベッドから落ちたのか、行儀のいい姉にしては珍しいと思い揺すってみるがぴくりともしない。抱き起こそうとして、天井からちぎれた洗濯ロープが揺れているのに気づき息を呑んだ。姉の首にはどす黒い索痕ができている。私を起こしたのは、姉がベッドから落ちた音なんかじゃなく、梁に結んだロープがちぎれ姉の遺体が落下した音だったのだ。
 痣の先生が駆けつけると、すぐさま蘇生措置が講じられた。軍属時代に学んだ最新式の人工呼吸をし、心臓マッサージを行う。だがその甲斐もなく姉の心臓がふたたび脈を打つことはなく、搬送先の陸軍病院にて死亡が確認された。
 姉ミヤコの享年は十四。戒名は鶺鴒院陽都童女。葬儀には家族が焼香に訪れたが、親類の意向で先祖代々の菩提寺には入れてもらえず、先生の計らいで色町にある投込寺にて無縁仏として葬られた。春を売るのを拒んで命を絶った姉は、皮肉にも火妓女のための無縁墓でその死を慰められるのだ。
 姉の自殺の契機となったあの手紙には、果たして何が書かれてあったのか。おそらく白檜で死んだ火妓女の誰かが書きのこした遺書で、姉はその手紙に感化され、使嗾され、みずからの将来を悲観してしまったのではないか。
 今となってはわからない。あのとき私に手紙を読みこなす力があったなら、姉が死を決意するさまを横でのんきに寝過ごさなかったなら、あるいは姉は死なずに済んだのかもしれない。その後悔が、今なお私の心の沈殿槽の底で澱となって堆積し、心が乱れるたびにその澱の毒素が舞いあがる。

 私の水揚げを買って出たのはニカグラ氏なる初老の男性だった。ニカグラ氏は旧久保田藩家老の遠縁で、ニカグラ精機なる機械メーカーの工場主だ。先生とは松本高校時代の同窓なんだとか。プレイボイとして浮名を流すニカグラ氏なら、肉置きの未熟な炉利派火妓女でも優しくおんなにしてくれるだろうとの気遣いから、楼主じきじきに相談したとのことである。
 痣の先生の厚誼には感謝したものの、結論から申しあげるとニカグラ氏は好色家だけあって火吹き棒の径がやたら野太く、私のホト開口部の寸法公差から大きく逸脱したものだった。機械工学に於いて穴と軸とが触れあう関係をはめ合いと言うのだが、私とニカグラ氏のはめ合いは、氏の練達の愛撫による愛液湿潤と緊張緩和などでは到底埋めきれぬものだった。
「しめしろが大きすぎるねい」
「しめしろとは?」
「軸受けに対して軸が太すぎる場合、その差をしめしろと呼ぶのだよ」
 なるほど、と私は煮えたぎる血がどくどく流れる陰部へ氷嚢を押し当てる。大量の通和散をグリスよろしく塗布して再戦を挑んだが、無理は通しても道理は通らない。一応は破瓜したが、それ以上のまぐわいは続行不可能だ。
「やむをえまいね。今夜は仕舞いとしようか」
「お待ちください。口潅頂くらいでしたら……」
 帯を締めなおそうとするニカグラ氏を慌てておし留める。いかな鬼棍棒の持ち主とて楼主の年来の知音をそのまま帰したんでは白檜の沽券に関わる。さいわいツグから挿入不成立時の次善策は聞きだしてある。
 私はニカグラ氏の火吹き棒を頂戴すると、頬を膨らませて息を吹きこんだ。子宮の熱に比べたら呼気など微温だが、冷えた火吹き棒を少しでも温めたい一心だ。ニカグラ氏は目を細め、うふとうわずった声で嘆息した。
「すみません。直接お熱を入れられたら良かったんですが」
「なにその気持ちで充分さね」
 ニカグラ氏が竿を上下へ揺すると、睾丸内部で冷えた溶岩の破片がちりんと神楽鈴のような澄んだ音色を奏でる。子宮の熱を流しこんだ火吹き棒であれば、その内部は灼熱のマグマで満たされ酒場の赤提灯よろしく煌々と輝くのだが、今はただ虚ろな玉鈴がうら淋しい音を奏でるのみだ。
 ニカグラ氏は朝まで同衾し、一夜分の代金を入れてくれた。私の不手際を見世へ知られまいとする心遣いだ。私は申し訳なく顔から火の出る思いで、せめてものお礼として朝にふたたび口へ含んだが、もはや火吹き棒は萎びたまま不活性を示すのみだった。
 見世先でニカグラ氏を見送ると私は自室へとってかえし、痛む腹を抱えて布団に潜りこんだ。ユウジンが痛みどめの散薬を差し入れてくれたので白湯で呑みくだしたが、ひき裂かれたホトは飽くことなくじくじくと下腹部を苛んだ。
 姉はこの破瓜の痛みを知ることなく死んだのだ。それを素直に寿ぎたい反面、少し妬ましい気持ちもある。汚れることなく無垢なまま死ぬのと、汚穢にまみれてそれでも生き続けるの、どちらが果たして仕合わせなのか。
 私もこれで処女を喪い、ようやく新造としての第一歩を踏みだした。なのにまだ姉の死を引きずってしまっている。心のなかで整理がつき昔日処理として封じこめたはずの出来事も、ひとたび心身の平衡が崩れれば今現在の懸案として何度でも蘇ってくるのだから、人間感情というのは始末に負えない。
 だが思い悩んだところで腹は減るし眠くなる。夜になれば客が女を抱きに来る。今を生きるものはつねに時間の怪物へ追われる逃亡者だ。今を離れて永く憩えるのは死者の特権である。あいにく私はまだ姉の隣へ骨を埋める気にはなれない。

 仮眠をとって朝風呂を浴びる予定だったが、気がつくと夕方近かった。野山へ帰る鴉どもの声が茜空に細くたなびき、一日をふいにしたむなしさで茫洋としていると、強い空腹を感じた。
 私の当番はツグが肩代わりしてくれたらしい。破瓜の傷が癒えるまではやさしくするのが白檜の掟だ。代々受け継がれる血と苦痛の絆。襖がひかれアマネが消化のよい食事を運んできてくれた。
 夜半になると散薬の効果が切れ痛みがぶり返した。漢方をもらいに行かねばと、私はかい巻き布団に袖を通したまま、平安京の宮廷女官よろしくずるずると裾で廊下の塵を集めながら真夜中の郭内を移動し、行灯部屋を訪れた。
 あちらこちらの部屋から男女の睦みあう声が聞こえるなか、この行灯部屋は静寂そのものだ。夜に客間で用いる行灯や布団を一時保管しておくこの部屋は、本来は物置なのだが、病気になった火妓女の隔離場所としても使われている。今、この行灯部屋の名主をしているのはパチリなる同世代の労咳病みの火妓女だ。
「パチリさん」
 誰何するが返答はない。障子戸ごしに行灯の火が揺らめくのが、和紙の微妙な陰影の濃淡でうかがえる。意を決して敷居をまたぐ。
 白檜の下層にある行灯部屋は旧家の土蔵の薄暗さだ。誇りっぽくかび臭い。こんな不養生な場所では病人はますます体調を崩し、病魔につけいられる隙を与える。あるいはそれこそ痣の先生の思惑なんだろう。
 廊下に沿って無数の行灯が規則正しく並べてある。手前のものは頻繁に出し入れするが、奥の方にあるのは襖紙の破れたものや、骨組みの壊れたものだ。血しぶきの飛び散った行灯や、破魔の札が隙間なく貼られた行灯もある。そうした無数の変わり行灯に目を奪われていると、そのうち意識がぼんやりとした。
「それ以上、奥へ行ってはだめ」
 背後からかすれた苦しげな声がした。振り向くと三畳ほどの畳に万年床が敷かれ、竹久夢二の画集を手にした少女がじいっとこちらを注視している。
「それ以上奥へ踏みこむと厄介なことになる」
「どうなるんですか?」
「ルイコみたくなる。ルイコは好奇心が強い子だったわ」
 今から八年ほど前に、ルイコなるおかむろの少女がこの行灯部屋の最深部を突きとめようとして白檜の最深部を目指した。パチリの再三の忠告を無視して。
「ルイコさんはどうなったんですか?」
「……貴女、ここへ何の用?」
「ここなら漢方がもらえるとユウジンさんが」
「あの子、新米に余計な智慧を吹きこんで。どうしたの? ほおずきの芯でも必要になったの?」
 違います、と私は首を横へ振る。堕胎どころか遙かそれ以前の問題だ。
「ああ痛みどめね。富山売薬の残りならあるわ」
 パチリは咳をしながら百味箪笥をひき、中から油紙へ包んだ散薬を取りだした。
「人参を満量処方してあるのを選んだわ。これ呑んで一晩眠れば痛みもとれる。これを持ってさっさと自分の領域へ帰りなさい」
「ありがとうございます」
 つっけんどんに差しだされた薬を受け取ると、深々とこうべを垂れる。
「貴女、ミヤコに似てるわね」
「今、なんと?」
「ああ、ごめんなさい。今のは忘れて頂戴」
「待ってください」
 誤魔化そうとするパチリへ、私はすがりつく。離して服が皺になるから、と不快そうに言われて、慌てて手を離した。
「姉を、ミヤコをご存じなんですか?」
「……上手く説明するのは難しいけど、ある意味では知ってるわよ。ここはね、一種の霊異的な重ね合わせの空間なの。時空の淀みと云うのかしら。白檜というのは、そもそも木食応其の高野山復興の際に悪霊を封じこめたとされる御堂を曳家して建てたものなの。だからその手のねじれが発生しがちなのね」
 パチリが説明してくれたが、意味はちんぷんかんぷんだ。
「ま、私みたいな半端物の死に損ないが柱として埋められてるから、ここ最近は妙な事件も減ってるけどね。痣の先生ってば、この私を除虫菊か何かと勘違いしている気がしなくもないわ」
「死んだ姉が、ここへ?」
「それは生者側の論理ね。どうして逆だとは思わないの?」
 パチリが怪訝そうに私を見る。そしてやれやれと肩をすくめると、寝巻をさらっと脱ぎ骨張った肩をさらし出した。そして胸に巻かれたさらしを下へずらす。長年の闘病で干からびた老女のような萎びた乳房の隙間から、穴の穿たれた硬貨を剥がした。
「これは古代中国の厭勝銭よ。貴女にあげる」
「大事なものなのでは?」
「気にしないで。もうじき私には必要がなくなるから」
 パチリは胸をとんと叩く。白蟻に喰われた大黒柱のような虚ろな音がした。
「さ、もう行きなさい。こんなに長いこと話したのは久しぶり。なんだか胸がつかえて仕様がないわ」
 私は再度お礼を口にした。
 行灯の火がひとつ、またひとつと消えてゆく。やがて無限に続くようなぬばたまの闇に廊下が閉ざされる。その闇が外部へ漏れ出ぬよう私は端境となる敷居をまたぎ、襖をていねいに閉じて遮断した。
 部屋へ戻って薬をくだして古銭を腹へあてるとお灸のような熱を感じてじんわり心地良く、あれほど辛かった痛みが引き潮となって遠ざかるのを実感した。

 夜見世のお相手が済んで客を見送ると、火妓女たちは朝風呂を焚く。体液でべとつく肌を清め、昼過ぎまで仮眠をとって羽根休めをする。風呂焚きは以前なら私の日課だったが、今は私の後釜となる新米おかむろのリンの仕事だ。
 焚きつけから火勢の強め方など風呂焚きのいろはを仕込んでいると、湯の溢れる音がして湯屋の窓からアマネが顔をだした。
「一寸なんでもお湯が微温いんじゃないの?」
「すみません。まだ不慣れなもんでして」
 私が後ろから小突くと、リンが伏し目がちにぼそぼそと詫びる。どうも人見知りする娘で閉口する。志布志の廻船問屋の娘らしいのだが、親の事業が失敗して路頭に迷い、こうして白檜へ流れてきたらしい。薩摩言葉をほかの火妓女たちにからかわれるのをえらく気に病んで、この頃はおしのごとく黙る始末だ。
「ふん、その子が次の風呂番かあ。これでようやくメグリも丁稚卒業ね」
「ねえアマネさん。白檜の投込寺って行ったことあります?」
「なによ藪から棒に」
 アマネが糠袋を豊かな乳房へ擦りつけながら眉をひそめる。
「さてはパチリに何か吹きこまれたんでしょ?」
「それは……」
「そうねえ、私は行ったことないわね。だって頓死した女たちが弔われてる場所なんて縁起が悪いもの。メグリは興味あるの?」
「ええ」と私は肯く。
「……そう。まあいいわ。だったら一度行ってみたら」
 アマネは手招きすると、私の耳朶へ湿っぽく言葉を囁く。投込寺への道順。単純なようで、どこか道迷いを誘発するような経路を聞き、胸へ書きとどめる。普段であれば忘れてしまうであろうその道順が、パチリが餞別にくれた古銭のご加護なのか、ゆるぎなく私の記憶へと固着された。
「きっと忘れてはだめよ。白檜では一度忘れると思いだすのに骨が折れるんだから。ここがそういう場所なのは、あんただって知ってるでしょ」
 アマネは私の心を読んだようにそう念押しし湯文字を着る。洗いたての湯文字はおかむろの誰かが洒落で香料を振ったらしく椿油のよいにおいがした。
「リン、私はこれから姉の墓参りに行ってきます。貴女は三助を買って出て頼まれたらお背中を流してあげてくださいね」
 私が改まって告げるとリンは神妙な顔をして短くはいと答えた。青たんの目立つ窪んだ陰気なまなざし。唇の端の血豆。この子もまた親にさんざん撲たれて育ったんだろう。私は彼女をそっと抱きしめると、私同様に忘れっぽい彼女のため再度風呂焚きの手順を教えた。

 姉さんかぶりをして農家の娘をよそおい郭の勝手口から町へ出た。近くの青果店で花と茶菓子を買い求める。姉の好物だったきんつば。純白の菊花を水切りして桶へ入れると掃苔用の亀の子だわしも一緒に沈めた。。
 教えられた道順を思いだしながら路地を進み、生垣の隙間から投込寺の敷地へ這入る。昨晩遅くに降った雨に玉砂利がぬれ、草履で踏むたんびにぎゅむぎゅむと音を鳴らした。
 社務所の燭台で線香に火を灯し、無縁仏が弔われる総霊塔の前まで来ると、日傘をさした若い女が墓前に手を合わせているのを見とめた。美しい顔立ちの二十歳前後の女性だ。花柳界の女なのか眉をおとし首筋にうっすらドーランの跡がある。男に激しく吸われた内出血の痕が生々しい。
「もし、そこの御方」
 私が声をかけると女性はうっすらと目を開き、夢見るような心持ちで私の方を見る。遠近感の曖昧な透徹したそのまなざし。
「あら、こんな寂れたお墓に珍しい」
「どなたかお知り合いが?」
「ええ、妹がこちらへ葬られてます。今日は月命日でしたので、妹の好きなきんつばを供えに」
「そうでしたか。偶然ですね。私の姉もきんつばが好物でした」
 私が笹の葉で包んだ和菓子を開くと、女性はおどけるような仕種をした。まったくおなじ形状をしたきんつばが二つ、仲睦まじく墓前に並ぶさまはどことなく異様で、だが限りなくのどかな風景だ。
「妹さんも火妓女を?」
「ええ。姉妹そろって東京から白檜へ売られてきたんですが、妹は未熟な体で客を取るもんだから、そのうち無理が祟って胸を病んで……」
 そう言って女性は巾着袋の根付を静かに撫でる。愛宕神社の火防の御守。私の持つものに比べると手垢じみてまろやかな形をしているのは、私と違いちゃんと日常のなかで使っているからだ。
「いつか妹をつれてこんな因業な場所抜けだしてやろうと、そんな約束だけが修羅道を生きる粮でしたが、いつしか私も胸を病み叶わぬ願いとなりました。じき妹の隣へお骨を並べられたら、それで満足でございます」
「そうでしたか」
「……つまらない身の上話を聞かせてしまいました。ではこれで」
 女性はあでやかな、陰のある含み笑いをすると、着物の裾をさばき立ちあがる。そして恭しく頭を垂れると、私が来た方へ帰ってゆく。
 ねえさま、と私は叫ぼうとしたが姉の姿はもう視界から消えてしまった。追いかけたところで追いつく道理がないのは百も承知だ。濃緑の線香が灰白に燃え尽きるまで私はそこで手を合わせて祈った。祠の内部に並べられた数千数万もの卒塔婆が風もなくかたかたと共鳴し、海水にあらわれた珊瑚の死骸が触れあうような澄んだ金属音がいつまでもいつまでもうちに木霊した。

 姉の墓参りが済むと私はその足で痣の先生の書斎を訪う。いつにも増して書斎の重みで傾斜が増し、畳へ座るとそのまま座敷の端から端まで辷ってゆきそうな勾配だ。古今東西の智慧の結晶がやがてはこの白檜を倒壊させ、すべては水墨画のような歴史の濃淡のなかへ沈んでゆくんだろう。そんな感傷に浸っていると襖が開き、入れ違いにユウジンが出てきた。
「お職、お邪魔します」
「僕の方なら用は済んだ。ホトに塗る通和散がよく減るんで、フノリと葛粉で代用しようってな相談でね。このところ誰かさんが滅多やたらと股に塗るもんだから、いささか在庫が枯渇気味なのさ」
 牛のような乳房を揺らしてユウジンがにやにやする。
 書斎へ入ると痣の先生は立て膝をつき出納帳をめくっている。香不和を呑みながら指を嘗めなめ頁を手繰るもんだから、台帳は醤油で煮染めたような色へ変色し、文字を読み取るのだって一苦労だ。
「メグリか。今少し立て込んでるんだがね」
「依頼された原稿、どうですか?」
「捗々しくないね」
 むっつりした顔をして、火鉢の熾火でわかばに火をつける。
「先生、死んだはずの者が平然と生きていたらどうします」
「なんだいそりゃあ」
「新入りのおかむろの子が、死んだ肉親とそこで出会ったらしくて。怖いこわいと怯えてしまってるんです」
「そんなつまらない要件で来たのかね」
 先生は苦虫をたらい一杯に含んだような顔をして、
「考えてもみたまえよ。この三千大世界のどこに自分がしんじつ生きているなどと言える者がおるかね? そんな口幅ったいことを明言するのは余程の阿呆か神懸かりくらいだ。なるほど、生者と死者は一見明確に違ってみえるが、だいたい人類族の大半はその中間にある幻像、すなわちスペクタァの点分布にすぎん」
「なら私や先生は?」
「万事が万事観測の問題だよ。われわれが死者の側にあるとするならそうだろうし、生者側にあると考えるならそれもまた理だ。幽冥界は安易な収束を潔しとしない。ひとつの柔らな天鵞絨の両端であって、重ね合ったと思えばすぐ離れ、ひたぶるどっちともつかない、ただそう云うものとしてそう在るのだ」
 原稿の進まぬ苛立ちからか、痣の先生は鼻息を荒くして自説をぶつと、開きっぱなしの言海の頁に鼻毛を植毛した。よほどの難産なのか、頁の四方に沿って方陣のごとく鼻毛ぶすまが築かれどうにも奇っ怪な有様である。
「だとしたら先生、人生はどちらに向かって続いてゆくんでしょうか」
「水の低みへ流れる方向へ歩けばじき海に着く寸法さ」
「海についたらどうなるんです」
「休めばいい。死ぬってのはきみ、一種の海水浴だよ。女の命の一灯が消え、ホトに宿した炎が消えれば、あとは気楽な長期休暇だ。そんな日が訪れるまでは、のらくらとその日暮らしで火種を絶やさないでやればいい」
 痣の先生はそう断じた。
 なるほど、そういうものかと私はつぶやき、それ以上反論の仕様もなく、だからひとまずここで筆を擱くことにする。なにしろこの先には何もないし、私はどこへも行かれないけれど、人の世はまだまだ続く様子なのだから。(完)

参考文献

『吉原炎上』五社 英雄

『吉原はこんな所でございました 廓の女たちの昭和史 』福田 利子

『吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日』森 光子

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