◉(断章)

 日本国憲法によるとすべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとあるが、実に薄っぺらく眉唾である。俺の推測によると実際に健康的で文化的な生活を送っている国民なんて二、三割いるかどうかだ。まずこの俺からして非文化的でたいへん不健康な高校生生活を強いられている事実からしても、この国のお歴々がナショナルミニマムなんぞ屁とも考えておらんのは確定的に明らかである。

 俺の通う私立泰明軒高校(偏差値四十五)第一文芸部は、エアコンというものが存在しない。そもそも通常教室はもちろん、音楽室や家庭科室などの特別教室から部室棟に至るまで生徒の活動空間に一切の空調設備がないのだ。かろうじてエアコンが設えてあるのは校長室と職員室くらいで、つい去年まで保健室にさえエアコンがなかったのだからまったく呆れる。体調不良の生徒が保健室に担ぎこまれたら暑すぎて余計体調が悪化したなどの笑えない話も多く、公儀が補正予算を組んでまで熱中症対策を推進するこのご時世に、この酷暑をこまめな水分補給と扇風機で凌ごうなどとのたまうのだから、うちの教師陣ときたら揃いも揃って暑さで大脳皮質が壊死してしまったとしか思えん。二学期に元気な姿で会えるのを楽しみにしてますなどとご高説を垂れる校長のバーコード禿頭に〈尸位素餐〉の四字を刻んだRFIDタグでも縫い付けてやりたいものだ。

「ちきしょう。暑くてやりきれんな」

 俺はキーボードへ駄文を連ねながらぬとつく顔を拭う。朝から数十回は使用しているハンケチはオーバーユース気味で、水分保有量が飽和してまるで用をなさない。絞ると男子高校生フレーバーの濃縮還元漢汁が滴る始末だ。

「ほんと、なんでこんな暑いんすかね。太陽黒点の異常とかっすかね?」

 俺の向かいの席でぼやくのは、おなじく第一文芸部所属の師走沖奈だ。ただでさえ癖のあるロングわかめヘアーが高温高湿によって放射状に膨張し、漁師を襲う磯女のごとき不気味な髪型をしている。

「おっき、進捗どうよ?」

「進捗だめです。死ゾ」

 沖奈がどろんとした死臭の漂うまなざしをモニタ越しに向ける。一応、端末の前に腰を据えて作業している風を装っているが、実際はだらだらとネットサーフィンにかまけて貴重な時間をあたら空費しているようである。

「シブでホモ絵漁ってると間に合わんぞ」

「……あい」

 沖奈がうめくような声をだし、マウスをかちかち連打してブラウザを閉じる。一体何窓してるんだこの女は。

 だが沖奈の不実を責めることはできない。何を隠そう俺も自分の端末では女同士の友情にまつわる同人小説を表示している。俺の場合、あくまで参考文献として開いているのだが、素人創作にしては内容がすこぶる面白く、暑くて筆が進まないのもあってだらだら読み進めてしまう。これぞどつぼだ。

 俺たちがこの酷暑のなか部室に缶詰されているのは、八月末〆切りの文芸コンテストに創作物を送るためだ。〈禁断の愛〉をテーマとするこの短編賞は、BLや百合をこよなく愛する俺たち第一文芸部員にとっては天の配剤と云うべき恰好のターゲットで、是が非にも応募して大賞をかっさらい、われわれの実力を遍く校内へ示す必要があるのだった。どうしてその必要があるのかはディケンズ的悲喜こもごも含め莫迦みたく長くなるため割愛するが、要するに部員二名の第一文芸部はもっか廃部統合の危機に瀕しているため手っ取り早く部活動としての実績が必要なのだ。

 文芸部員たるもの短編小説を書くなんぞ朝飯前、サクッと受賞して第一文芸部の名を全国区に知らしめると共に高校生作家への華麗なる転身を目論んだものの、八月の部室棟は午前十時時点で室内温度三十六度もの超高温。これからさらに暑くなると熱中症になる危険がある。この極限状況では有意義な創作活動なんぞ望むべくもなく、貴重な夏休みの最後の一日は不毛のうちに潰えつつあった。

「せめてノートパソコンなら場所を変えられるんすけどね」

「活動資金さえあればな」

 第一文芸部所有の端末は職員室からお下がりのデスクトップ端末だ。沖奈の端末はかろうじてネットに繋がるものの、俺の使っているIBMアプティバに至ってはOSが古すぎるためオフライン作業しかできない骨董品である。表示の薄れたCRTモニタを凝視して書いているから、十代半ばにして慢性の眼精疲労を起こしつつある。

「だめだだめだ。おっき、少し休むぞ」

 俺は精根尽き果ててマウスを放りだした。底の蓋が外れ、マウスボールがころころと部室の床を転がってゆくが、もはや拾いあげる気力さえない。

「木田先輩。アイス食べたい」

「自分でとれよ」

「いいんすか。あたし先輩の分も食べちゃうっすよ?」

 沖奈が汗だくのブラウスの胸もとをパタパタする。黄土色をした微妙な下着が見えるが、むしろ目につくのは団扇の方だ。沖奈の好きな鬼畜系BLゲーの眼鏡半裸男子が描かれている。沖奈は重度の眼鏡男子フェチらしく、彼女の新作に出てくる男は全員眼鏡という設定だ。弱視が普通の世界で、世界的眼鏡メーカーの会長が自分好みの眼鏡男子の弱みを握って次つぎと手籠めにしてゆく思弁小説らしい。

 部室の冷蔵庫を覗く。この冷蔵庫は文芸部分裂以前にあったものだ。以前は大所帯だった文芸部用とあってそこそこサイズが大きく、立派な冷凍庫もある。

だが、あいにくアイスが一個しかなかった。昨日、駅前のスーパーで十個近く買いこんだアイスを一日でほとんど平らげてしまった計算だ。

「おっき、アイス最後の一個だぞ。随分喰ったな」

「じゃあ半分こっすね」

「こういうのは早い者勝ちだ」

「お、可愛い後輩相手にそんな舐めくさった態度とります?」

 沖奈はにやっとすると、スカートから伸びた脚をすっと伸ばし、アプティバの電源ケーブルへ絡める。灰白色のケーブルとなまっちろいふくらはぎが官能的に絡みあい、俺は不覚にもどきっとした。

「……バックアップ取ってるぞ」

「このポンコツくんが急なシャットアウトに耐えられますかね?」

「俺が悪かった。アイスは全部やるよ」

「わかればイイっす。あと半分こでイイっす」

 沖奈は屈託なく微笑んで脚を離した。ふだん鬼畜系エロを好むだけあって、沖奈の脅しはなかなか堂に入っている。「先輩みたいななよっとした眼鏡男子を屈服させるの最高すぎますね」などと邪悪な欲望を口にして憚らない。

「んじゃたまにはアイスの食べさせあいっこでも」

「おいおい、暑さで脳がイカれたのか?」

「失礼なヤカラっすね。私だって一応先輩の――」

 沖奈が口を尖らせたとたん、部室の引き戸が勢いよく開かれた。転げ落ちるようにして部室に飛びこんできたのは、第二文芸部の部長、初目ゆき(通称ジョンソン。以下ジョンソン)だ。ジョンソンは必死の形相で引き戸を閉じると、鬼気迫る形相で俺たちの方へ叫んだ。

「鍵! 鍵早く頂戴!」

「なんだこいつ」

「いきなり入ってきて失礼な女っすねー」

 俺たちはしらっとした目でジョンソンを見る。この女とは長年にわたる確執がある。どのような確執かはシェイクスピア的悲喜劇含めクソ長くなるため割愛するが、要するにジョンソンは俺の元彼女なのだ。根っからの文学少女であるジョンソンとは中学時代から交際を重ね、高校では俺が部長、彼女が副部長の立場で長らく文芸部を束ねてきたのだが、俺が百合に傾倒してからは関係が悪化し、彼女は造反を起こして部員の大半を率いて第二文芸部を新設、弑逆BANされた俺は失意のうちに唯一残ってくれた沖奈と細々第一文芸部を運営している。

 そのお家騒動以来、俺とジョンソンの仲は冷えこみ、SNSやメッセンジャーでさえ会話していない。正直、顔を見ると愛おしかった頃の甘美な記憶が想い起こされ涙が秒速五センチで落ちるくらい辛くなるので、なるべくなら顔を合わせたくなかったのだが。

 だが、当のジョンソンはそれどころではないらしい。沖奈から鍵をひったくると素早く施錠し、ドアを押さえこんでいる。

 と、誰かががつんど引き戸を殴る音がした。教師に注意された不良生徒が腹立ちまぎれにロッカーを蹴って教室を出て行くときのような音が響きわたる。その力は存外強く引き戸が跳ねあがってレールから脱線しそうになる。

「もっと強く抑えないと突破されちゃう! 師走さん、幾太郎手伝って!」

「もう! なんなんすか一体」

 訳もわからぬまま、彼女の気迫に圧されるかたちで加勢する。廊下から金属が触れあうような奇妙な擦過音が聞こえる。どうやら何者かがジョンソンを追ってこの部室へ押しこむ腹らしい。実に怪しからん。たとえ相手が合衆国大統領だろうとローマ法王だろうと部長たる俺の許可なしには一歩たりとも敷居を跨がせる気はない。

 と、引き戸の曇りガラスが割れ、中から黒々とした◎の一部が現れた。◎は中央を凹ませながら巧みに割れ目から部室内へまろび入ろうとしてくる。

「なんだこの妙な環は?」

「それに触らないで! ふれると◎が感染するわよ!」

 ジョンソンが鋭く制し、コロコロローラーで◎を絡め取る。そして掃除用のゴム手袋をして◎の絡んだ粘着シートを剝がすと丸めて引き戸の割れ目から外へ投げ捨てた。

「おい、ごみのポイ捨てはよくないぞ」

「刑法上の緊急避難よ」

 ジョンソンはすげなく言い放ち、割れた窓ガラスへダクトテープを目張りした。そして俺と沖奈に指図して、本棚を引き戸の前へ動かし、これまたダクトテープで補強した。まさにアメリカ人並のダクトテープ活用術である。

「立てこもるなら第一文芸部の部室で正解だったみたいね。本棚があればバリケードを築くのも簡単だし、ダクトテープもふんだんにあるし」

「なんであるんだよ」

「私が副部長のとき買い込んでおいたの。いざってときのためにね」

「おまえ部の書籍代をそんなことに……」

「ばかね幾太郎。パニック映画ファンとしてはダクトテープは必携なのよ? 実際、こうして襲われたときはすっごく役に立つでしょ」

 テープをバリバリしながらジョンソンはどや顔をする。その笑顔がキュートすぎて胸の奥がじくじく痛んだ。俺は女子の満面のどや顔にすごく弱いのだ。いわんや中学時代から惚れてきた元彼女のどや顔ともなればなおさらである。

「先輩、でれでれしない」

 沖奈がじと目で釘をさしてくる。

 本棚バリケードを築きあげると、彼女を追ってきた◎の群れは追跡をあきらめて方々へ散ってゆく気配がした。ぎちぎちした金属音が遠ざかってゆく気配がする。

「諦めてくれたみたいね」

「おい、あれは一体何なんだ?」

「◎よ」

「◎ってなんだよ」

「◎は◎よ。私にもそれ以上のことはわからない。ただの◎。そいつらが突然どこからともなくあらわれて、学校のみんなを襲い始めたの」

「◎に襲われるってなんだよ。抽象的ってレベルじゃねーぞ」

「……説明が難しい。外を見て」

 ジョンソンはこの現象について説明しようと苦吟するが、うまく言葉としてまとまらないらしく、あきらめて窓を指さした。(未完)

鳥刺し(断章)

 〈遺構〉内部に吊された巨大な鳥籠の中にハトは横たえられている。
 効き目の強烈な眠剤を飲まされ、かれこれ半日近くも不本意な眠りを強いられてきた。覚醒のきわにありがちな、支離滅裂な悪夢から逃れようとして、ハトは眉間に皺を寄せて苦悶の声をもらした。
 やがて薬が切れると、頭痛の中で目をさました。冬のプールを想わせるどろっとしたハシバミ色の瞳が焦点を結んだ。ひたいにかかる亜麻色の柔らかな髪をかき上げると、ハトはおそるおそる周囲を見わたした。
 鳥籠は八畳ほどの広さの円筒形の構造物だった。鉄の心棒が同心円状に並び、天井の穹窿に向かってゆるやかなアーチを描いている。鳥籠の頂点には太い索具がつながれ〈遺構〉上部の天井から吊り下がっている。ハトは不安げに空を仰ぎ見たが、〈遺構〉の天井はあまりに高く、鎖の先が乳白色のもやにかすんで消えるのが見えるだけだった。
 ひどく喉が渇いていた。腹ぺこだったが、今は頭痛と喉の渇きが優先でそれほど切実な飢えを感じない。手首がずきずき痛んだ。剃刀跡のような疵から青ざめた血が滲んでいる。どこか鋭利なふちで切ったのだろうか。
 飲みものを探そうとふらっと立ちあがると、鳥籠がきしんだ音をたてて斜めにかしいだ。鳥籠は均一に張られた副索具で平衡が保たれるように設計されていたが、長年〈遺構〉内の湿った空気にさらされ、鎖の大部分が錆におかされている。錆止めのえんじ色の塗料がめくれて地金が露出した鎖は、いつ何どき負荷に耐えかねてちぎれてしまってもおかしくない。
 ハトは狼狽し、ひどくおびえてみずからの体を強く抱きしめた。
 気持ちが落ちつくと、ハトは意を決して四つん這いで動きだした。これ以上動きたくはなかったが、喉の渇きはいや増す一方だ。鎖が切れて鳥籠ごと落下する恐怖と闘いながら籠の中を調べた。
 床にはところどころ菰が敷かれている。誰かが寝起きした痕跡なのか、垢じみた黒ずんだ痕跡がある。干し肉の破片のようなものが、赤黒くへばりついているが、進んで触る気にはなれなかった。
 片隅に置かれている木箱を覗くと、古びた壜が並べてあった。壜の口は上を向けられ、中には小さなゴミや埃の浮かんだ水が半分ほど溜まっている。
ハトは壜に口をつけて一瞬躊躇い、壜の中に指を入れてかき回した。そして着ている粗末な布きれを二枚に重ねると、汚れた水を漉して飲んだ。濾過したところで味は泥水そのものだったし、お腹を壊してしまうかもしれないのに、ハトは無我夢中で黄ばんだ水を全部飲み干した。
 ここはどこなんだろう。
 〈遺構〉内は乳白色の濃霧でみたされ、視界が効くのは鳥籠の周辺のごくわずかな範囲のみだ。叫んで助けを求めてみたが、濃霧は雪のように音を吸収する性質があるのか、遮られてほとんど届かない。
 お願い。誰かわたしをここから出して!
 ねえ、誰か居ないの! 居るなら返事をして!
 ハトの悲痛な叫びは、防音室のような霧の中で空しく反響した。叫ぶと喉が渇き、また汚水を飲むはめになると気づくと、それ以上無駄な努力を重ねるのは控えた。

 〈遺構〉内にも昼夜の概念が存在しており、時間が経つにつれて乳白色の霧は明るさをうしない、ほの暗い夜の帳がおろされた。霧自体がわずかに蓄光性を持つため、夜半すぎまでは微かに周囲が明るく照らされるのだが、やがてその輝きも消えてぬばたまの夜が訪れるのだった。
 叫んだ反動からか、ハトは膝を抱えてうずくまると、薄墨を流したような夜の闇を見つめるでもなく見つめ、無情な時間がすぎるのをひたすら待った。
 きっと誰かが助けに来てくれる。
 この状況でもハトはそう信じている。この世界には自分しか居ないのではないか、という疑いが首をもたげるたび、気弱な自分を叱りつけて否定する。ありがちな恒常性バイアス。だが極限状況においては素朴な楽観こそが、ひび割れやすい精神を保護する強固な皮膜として働くものだ。
 その日は壜に溜まった汚水をちびちび飲んで、ひたすら物思いに耽ってすごした。ほかにすることもなく、漠然とした不安から逃れようとして、ひたすら楽しかった幼少期のことを考えた。軒先のカウチに腰をおろしてパイプをふかす父、マフィンの焼き加減を見定めるエプロン姿の母、ハトは愛犬とじゃれ合いながら、おやつが焼きあがるのを待ち、姉が紅茶をいれる手伝いをしようとキッチンに顔をだした。こぼれる家族の笑顔、朗らかな日曜日の午後……
 食べもののことが脳裏をよぎるたび、胃がずきずきと痙攣した。胃液が胃を溶かしているような薄気味悪い疼痛が絶え間なくハトの胸をこがした。マフィンでなくても構わない。今のハトにとっては食べられるものなら、腐った残飯だってご馳走だ。
 空腹も辛かったが、切実なのは尿意だ。空きっ腹を満たそうと汚水をがぶがぶ飲んだため、尿を溜めこんだ膀胱の重みで鼠径部がずきずきした。鳥籠のなかに便所はない。教育のある息女のつねとして野外での用足しを潔しとしない。
 健気に我慢を重ねたが、やがてそれも限界がきて抑えがきかなくなった。一張羅の下着をよごしてしまうくらいなら、と気恥ずかしいのを我慢して、鳥籠のへりに立ち放尿した。
 溜めに溜めこんだものを放出する快感に身震いしながら、ハトは乳白色の霧へ吸いこまれてゆく小便を眺めた。濃い橙色をした液体は血が混じってロゼワインの色合いで、明らかに健康に異常をきたしていることが見てとれる。
 ハトは衰弱する恐怖と惨めさで低く嗚咽をもらした。
 翌日は目覚めるのに時間がかかった。〈遺構〉内を吹きぬける風に一晩中さらされたため、関節を病んだ老人のような痛みがハトを苦しめた。それでも無理をして起きあがると、赤く泣きはらした目で景色を眺めた。誰かが救いに来てくれるのではないかと空しい期待をこめて。
 だが昨日までとまるで変わらない事実に打ちのめされ、渇ききった瞳がふたたび涙で滲んだ。
 飽きられたペットみたい、とハトは考えた。誰かの気まぐれで購われ、気まぐれで飼い殺しにされる者たち。檻の中で飢え渇くみじめな小動物。
家族を想い流した涙も涸れ果て、苛ついて咬んだ指の爪から三日月が消えた。栄養失調がハトの体を急速にむしばんでいる。このまま衰弱すれば、数日以内にその命の炎が燃え尽きるのは明らかだった。
 明くる日の夜明けを迎える頃には、立ちあがる気力も残されてなかった。ふしぎと空腹は和らいで奇妙に穏やかな気持ちだったが、手足が鉛を詰めたように重く、動くのがおっくうで目を閉じている時間が長くなった。
どこからか金槌で鉄杭を叩くような音がしたが、それももう幻聴なのか、本当に聞こえるのか区別がつかない。目やにでべとつく薄目を開き、焦点の定まらぬ目で〈遺構〉の中空を見据えては、ただその瞬間が訪れるのを待った。
鳥籠内で目覚めてから六日目の朝、うとうと微睡んでいると、突然ハトは強い動悸に襲われた。脈拍が早鐘を打ち、かと思うと突然脈が数拍分飛んだ。栄養失調状態が長く続いたため、血中のカリウム濃度が低下し、重篤な不整脈をひき起こしたのだった。
ハトは胸を抑えて干からびたエビのように丸くなると、痙攣してひくつくような呼吸を断続的に行ったが、やがてそれも途絶えた。

おい、と殻の外から声がした。
 ハトは虚ろなまなざしを声のする方へと向ける。
 幻聴ではない。正真正銘、自分以外の声だった。ハトの瞳に理性の光が戻ると、口を開いて助けを求めようとした。そこへ生温い粘液がどっと流れこんでくる。窒息の恐怖に慌てて口を閉じた。
 ハトが閉じこめられているのは、卵のかたちをした構造物だ。構造物の内側は羊水で満たされ、ハトは膝を抱えた姿勢でその中に浮かんでいる。
 声のする方へ手を差しのべると、構造物の壁に触れた。指先に触れたのは内膜だ。びろうどのようななめらかな感触の膜は、爪を立てるとたやすく破れた。だが、その奥の殻は固く、生なかな力ではびくともしない。
 ふたたび呼び声がした。ハトは無我夢中で殻の内側を叩く。叩いた箇所に放射状の亀裂が生じるが、決壊して中身が溢れ出るには至らない。もどかしさと息苦しさに、ハトは殻の内側をかきむしる。
出して! わたしをここから出して!
渾身の叫びは、どうにか外に届いたらしい。にわかに騒がしくなると、割れた外殻が一枚ずつめくられた。ハトは身うちの気力を振り絞るようにして、立ちはだかる内幕を引き裂いた。
そこへ複数人の腕が差しこまれ、腰や両腋を抱えるようにしてハトの体を引きずり出した。おびただしい量の粘液が構造物の外へあふれ出し、ハトは床にくずおれて喘ぐような浅い呼吸をした。粘液でふやけた手足は萎えきって、自重を支えることさえできなかった。
「良かった。まだ息があるわね」
 長身痩躯の少女がハトの脈をたしかめ、まぶたを押し開いて瞳孔の反応をたしかめた。そして後ろに控える少女たちを手招きした。
「アトリ、お湯を沸かしてきて。ツグミは手を貸して。風の当たらない場所に運んでやらないと、すぐ体が冷えきってしまうわ」
 少女の指図のもと、年下らしき二人の女の子たちが慌ただしく動きだした。
「怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
 やさしい言葉をかけられ、ハトは小さくうなずく。思考が麻痺して感謝の言葉さえ出てこない。こみ上げてくる嗚咽を殺して、生まれたてのひな鳥のように震えるしかなかった。

 毛布でくるまれ、差しだされたとろみのある白湯を啜ると、ようやく冷静にものを考えられる余裕が生まれた。助かったという実感が湧いて、胸に晴ればれとした喜びがみちあふれてくる。
「気分はどう?」
「だいぶ落ち着きました。あ、あの……」
 ありがとうございます、とあえかな声でお礼を口にした。鳥籠で目覚めてから初めて他人と言葉を交わしている。そう意識すると、妙に気後れして声が遠慮がちになる。
「目覚めてくれてよかったわ。なかなか嘴打ちが始まらないから、中で力尽きて死んでしまったんじゃないかって心配してたの」
「嘴打ち……」
「卵の殻を破って出てくるのを、そう呼ぶの。誰が最初にそう呼んだのかは知らない。私も先輩の子に教えられたし、その先輩も誰かに教わったらしいの」
 そう言いながら少女が天井を仰ぐ。
 鳥籠の中で卵の殻に包まれているハトを発見し、彼女たちはその孵化を見守ってきた。卵の殻に亀裂が生じたのが、かれこれ四日前。いつまで経っても中身が出てくる兆候がなかったので、やきもきして外から殻を叩いてみようかなどと相談していたところだった。
「私はモズ。貴女、名前はおぼえてるの?」
「わたしは……たぶん、ハト」
 ハトはおずおずと名前を口にし、その違和感に慌てて口をつぐんだ。本当にハトなんて名前だっただろうか。頭の中で名前を思いうかべるのと、実際に声に出してみるのとでは感じ方がまるで異なる。ハトと名乗ると、まるで他人の名前を軽々しく借用したような後ろめたさがつきまとう。
 ハトが黙りこくると、モズは謎めいた笑みをうかべた。ビジリアンブルーの瞳。想いを秘匿した薄紫の唇。病人特有の青ざめた皮膚はだらしなく弛み、腹水が溜まっているのか下腹部が大きく膨らんでいる。
「少し休んだ方がいいわね」
「平気です」
「だめよ。羽化した直後はまだ完全に体が出来上がってないの。興奮するのはわかるけど、今はおとなしく私の言うことを聞いて」
 モズになだめられ、ハトは鳥籠の床に寝そべる。モズが糞尿の染みこんだ菰でハトの体を包んでくるのには閉口したが、生まれたてのハトが体を冷やさないよう気を遣ってくれているのだと分かったから文句は言わない。なるべく口で呼吸するようにしてやり過ごした。

 〈遺構〉内で初めて他人と一夜をともにした。
意識が冴えきっていたので眠れるか不安だったが、実際は横になると一分と経たないで意識をなくしてしまったらしい。早めに眠ったのもあってか、ハトが最初に目をさました。
 落ち着いて鳥籠内を見わたすと、天井の一部が歪められていて、人ひとりが出入りできるほどの穴が穿たれている。モズたちはここから鳥籠の中に入ってきたに違いなかった。
 ハトは朗らかに屈伸した。手足に奇妙な充足感がある。昨日までのひねこびた手足に変わって、若くて新しい四肢が生えてきたような感覚だ。
 手のひらをかざし、まじまじと眺める。
 手首に刻まれた傷痕もかさぶたになって癒えつつある。
 あの人たちは何者なんだろうか。
 ハトは身を寄せ合うようにして眠る三人の少女を覗きこんだ。大柄なモズが、小柄な二人を抱き寄せるようにして目を閉じている。まるで雛を護る親鳥みたいとハトは思い、やさしい気持ちがこみ上げてきて頬をゆるめた。
「あら、早いのね」
 腫れぼったい目をこすってモズが体を起こした。
モズ姉さま、と少女の片割れがモズの衣服の裾を引っ張る。
「そういえば挨拶がまだだったわね。この子たちはアトリとツグミ。アトリの方がほんの少しお姉さんなのよね」
 双子が同時に会釈をする。一卵性双生児なのか両者の顔は生き写しだ。アトリはきょとんとしてハトを眺め、ツグミの方はハトの視線にたじろいでモズの背中に隠れようともじもじした。
「モズ姉ちゃん、この人どうするのさ?」
「モズ姉さま、連れて行くの?」
 双子に左右から問われ、モズは真剣な顔で小さくうなずく。だが、すぐに表情をやわらげると、せっかちな双子の頬を指でつんとした。
「気が早いわね。ハトは孵化したてなのよ」
「でも、ツバメみたくなったら困るし……」
「その話はしないで。ツバメのことは忘れなさい」
 モズがやんわりと、だが有無を言わさぬ口調でたしなめる。
「姉さま、お腹ぺこぺこ~」
「そうね。そろそろ朝ごはんにしましょうか」
 モズは着ているチュニックを肌蹴ると、太く垂れさがった乳房を鷲掴みにして双子の方へ差しだした。静脈の浮かんだ軟らかな乳袋をしごくと、熟した野苺を想わせる乳首から無数の白い水滴が滲みだした。
「いただきます!」
 アトリとツグミはモズの乳首に武者振り付き、ごくごく喉を鳴らして母乳を呑んだ。モズは夢中で乳に吸いつく双子を慈愛のまなざしで見つめ、二人の灰色の髪に指を通しながら撫でた。
 先にアトリの方が乳首から離れた。口の周りには牛乳を呑んだあとのような白濁の輪ができている。それをごしごし拭うと、
「ハト、こっち来て飲みなよ。あんたもお腹空いてるだろ」
「あら、もうよかったの?」
「あたしの分やる。姉ちゃんだっていきなり三人分の母乳は出ないだろ」
 アトリに手招きされ、ハトはたじろぐ。
 知り合ったばかりの相手の乳を吸うのは、どうしても抵抗がある。だがアトリが自分の分け前を減らしてまでハトに勧めてくれたのだ。お相伴にあずからないわけにもいかない。
 ハトは生唾を呑みこむと、勃起して固くしこる乳首をこわごわ顔の前に運び、そっと唇で挟むようにしてくわえた。
「いい感じ。でも歯は立てちゃだめよ。ゼリー飲料を飲むみたく頬をすぼめてチュってするの。ああそう、上手ね……」
 見よう見まねでモズの乳首を吸うと、滴り落ちる甘い母乳を呑んだ。
「どう?」
「おいしい……すごく甘いです」
 ハトは陶然と答える。孵化してから初めて口にする甘味にめろめろだ。さっきまでの遠慮もどこへやら、無我夢中でモズの乳房に吸いつき、出が悪くなると乳首を舌先でねぶってせっつく始末だ。
「もう、慌てないで」
 モズは身震いすると、妊婦のように膨らんだ腹部を掌底で軽く押しこんだ。するとちょろちょろだった母乳の量がふたたび増した。
 追加の母乳をぺろりと呑み干すと、ハトは恍惚とした面持ちで乳首から離れ、小さくけふとゲップをした。ハトの吸引が強すぎたのか、モズの乳首は内出血して紫色のあざができている。
「ご、ごめんなさい」
「いいのよ。お腹は満たされた?」
 ハトはうなずき、モズの肥大化した腹部を見つめた。表皮が引き延ばされて妊娠線が浮かび、内側から押し出されたでべそから、透明な汁が滲んでいる。
「モズ、貴女のそのお腹……」
「ああ。もしかして妊娠してると思ったのかしら。このお腹はね、胎児ではなくて肥大化した乳腺なの。触ってごらんなさい」
 手のひらで触れると、モズのお腹の中で母乳がちゃぷんと音を鳴らした。固い妊婦の腹とは明らかに異なる、大量の液体が詰まった水腹だ。
「長旅になると思ったから、作った母乳をすべてお腹に溜めこんだの。栄養は私が溜めこんで、アトリとツグミに与えるようにすれば、余計な荷物を担いで飛ぶ必要がなくなるから」
 ミツツボアリみたい、とハトは思った。子供の頃、テレビの自然番組で観たことがある。砂漠に棲息するハニーアントと呼ばれる蟻たちは、厳しい環境で生きのびるため、お腹の中に大量の蜜を溜めこんでそれを仲間に与えるという。
「メジロという男が教えてくれたの。私の体は乳腺が異常発達しているから、分泌した乳液を体内に貯蔵すれば長時間の飛行にも耐えられる。上手くすれば、ここから出られるかもしれない、と」
「この鳥籠から?」とハトが尋ねる。
「……この〈遺構〉からよ」
 モズは眉間に皺を刻んで沈痛な面持ちをした。(未完)


書きかけの断章です。

一灯貧女アラインメント

あらすじ

胎内に火を宿す少女メグリは、姉と共に陸奥の色町へと売られる。やがて遊郭〈白檜〉の学者楼主〈痣の先生〉に育てられ一人前の火妓女(ひぎめ)として新造デビューを果たしたメグリは、ひょんなことから姉の自殺の真相を知ることになる。第七官界を彷徨う少女のたおやかな喪失と生活。

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イリンクス

あらすじ

地球から遙か遠くの深宇宙の水の惑星。分厚い氷に閉ざされた深海域に棲息する環形動物の少女は、ある日機械の少年を拾う。〈文明の羹〉を名乗る人工知能の少年は異邦の海底世界に地球の知識を広めようとするが……。繁殖の円環から逸脱した者たちの理と感動をめぐるナラタージュ。

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