◉(断章)

 日本国憲法によるとすべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとあるが、実に薄っぺらく眉唾である。俺の推測によると実際に健康的で文化的な生活を送っている国民なんて二、三割いるかどうかだ。まずこの俺からして非文化的でたいへん不健康な高校生生活を強いられている事実からしても、この国のお歴々がナショナルミニマムなんぞ屁とも考えておらんのは確定的に明らかである。

 俺の通う私立泰明軒高校(偏差値四十五)第一文芸部は、エアコンというものが存在しない。そもそも通常教室はもちろん、音楽室や家庭科室などの特別教室から部室棟に至るまで生徒の活動空間に一切の空調設備がないのだ。かろうじてエアコンが設えてあるのは校長室と職員室くらいで、つい去年まで保健室にさえエアコンがなかったのだからまったく呆れる。体調不良の生徒が保健室に担ぎこまれたら暑すぎて余計体調が悪化したなどの笑えない話も多く、公儀が補正予算を組んでまで熱中症対策を推進するこのご時世に、この酷暑をこまめな水分補給と扇風機で凌ごうなどとのたまうのだから、うちの教師陣ときたら揃いも揃って暑さで大脳皮質が壊死してしまったとしか思えん。二学期に元気な姿で会えるのを楽しみにしてますなどとご高説を垂れる校長のバーコード禿頭に〈尸位素餐〉の四字を刻んだRFIDタグでも縫い付けてやりたいものだ。

「ちきしょう。暑くてやりきれんな」

 俺はキーボードへ駄文を連ねながらぬとつく顔を拭う。朝から数十回は使用しているハンケチはオーバーユース気味で、水分保有量が飽和してまるで用をなさない。絞ると男子高校生フレーバーの濃縮還元漢汁が滴る始末だ。

「ほんと、なんでこんな暑いんすかね。太陽黒点の異常とかっすかね?」

 俺の向かいの席でぼやくのは、おなじく第一文芸部所属の師走沖奈だ。ただでさえ癖のあるロングわかめヘアーが高温高湿によって放射状に膨張し、漁師を襲う磯女のごとき不気味な髪型をしている。

「おっき、進捗どうよ?」

「進捗だめです。死ゾ」

 沖奈がどろんとした死臭の漂うまなざしをモニタ越しに向ける。一応、端末の前に腰を据えて作業している風を装っているが、実際はだらだらとネットサーフィンにかまけて貴重な時間をあたら空費しているようである。

「シブでホモ絵漁ってると間に合わんぞ」

「……あい」

 沖奈がうめくような声をだし、マウスをかちかち連打してブラウザを閉じる。一体何窓してるんだこの女は。

 だが沖奈の不実を責めることはできない。何を隠そう俺も自分の端末では女同士の友情にまつわる同人小説を表示している。俺の場合、あくまで参考文献として開いているのだが、素人創作にしては内容がすこぶる面白く、暑くて筆が進まないのもあってだらだら読み進めてしまう。これぞどつぼだ。

 俺たちがこの酷暑のなか部室に缶詰されているのは、八月末〆切りの文芸コンテストに創作物を送るためだ。〈禁断の愛〉をテーマとするこの短編賞は、BLや百合をこよなく愛する俺たち第一文芸部員にとっては天の配剤と云うべき恰好のターゲットで、是が非にも応募して大賞をかっさらい、われわれの実力を遍く校内へ示す必要があるのだった。どうしてその必要があるのかはディケンズ的悲喜こもごも含め莫迦みたく長くなるため割愛するが、要するに部員二名の第一文芸部はもっか廃部統合の危機に瀕しているため手っ取り早く部活動としての実績が必要なのだ。

 文芸部員たるもの短編小説を書くなんぞ朝飯前、サクッと受賞して第一文芸部の名を全国区に知らしめると共に高校生作家への華麗なる転身を目論んだものの、八月の部室棟は午前十時時点で室内温度三十六度もの超高温。これからさらに暑くなると熱中症になる危険がある。この極限状況では有意義な創作活動なんぞ望むべくもなく、貴重な夏休みの最後の一日は不毛のうちに潰えつつあった。

「せめてノートパソコンなら場所を変えられるんすけどね」

「活動資金さえあればな」

 第一文芸部所有の端末は職員室からお下がりのデスクトップ端末だ。沖奈の端末はかろうじてネットに繋がるものの、俺の使っているIBMアプティバに至ってはOSが古すぎるためオフライン作業しかできない骨董品である。表示の薄れたCRTモニタを凝視して書いているから、十代半ばにして慢性の眼精疲労を起こしつつある。

「だめだだめだ。おっき、少し休むぞ」

 俺は精根尽き果ててマウスを放りだした。底の蓋が外れ、マウスボールがころころと部室の床を転がってゆくが、もはや拾いあげる気力さえない。

「木田先輩。アイス食べたい」

「自分でとれよ」

「いいんすか。あたし先輩の分も食べちゃうっすよ?」

 沖奈が汗だくのブラウスの胸もとをパタパタする。黄土色をした微妙な下着が見えるが、むしろ目につくのは団扇の方だ。沖奈の好きな鬼畜系BLゲーの眼鏡半裸男子が描かれている。沖奈は重度の眼鏡男子フェチらしく、彼女の新作に出てくる男は全員眼鏡という設定だ。弱視が普通の世界で、世界的眼鏡メーカーの会長が自分好みの眼鏡男子の弱みを握って次つぎと手籠めにしてゆく思弁小説らしい。

 部室の冷蔵庫を覗く。この冷蔵庫は文芸部分裂以前にあったものだ。以前は大所帯だった文芸部用とあってそこそこサイズが大きく、立派な冷凍庫もある。

だが、あいにくアイスが一個しかなかった。昨日、駅前のスーパーで十個近く買いこんだアイスを一日でほとんど平らげてしまった計算だ。

「おっき、アイス最後の一個だぞ。随分喰ったな」

「じゃあ半分こっすね」

「こういうのは早い者勝ちだ」

「お、可愛い後輩相手にそんな舐めくさった態度とります?」

 沖奈はにやっとすると、スカートから伸びた脚をすっと伸ばし、アプティバの電源ケーブルへ絡める。灰白色のケーブルとなまっちろいふくらはぎが官能的に絡みあい、俺は不覚にもどきっとした。

「……バックアップ取ってるぞ」

「このポンコツくんが急なシャットアウトに耐えられますかね?」

「俺が悪かった。アイスは全部やるよ」

「わかればイイっす。あと半分こでイイっす」

 沖奈は屈託なく微笑んで脚を離した。ふだん鬼畜系エロを好むだけあって、沖奈の脅しはなかなか堂に入っている。「先輩みたいななよっとした眼鏡男子を屈服させるの最高すぎますね」などと邪悪な欲望を口にして憚らない。

「んじゃたまにはアイスの食べさせあいっこでも」

「おいおい、暑さで脳がイカれたのか?」

「失礼なヤカラっすね。私だって一応先輩の――」

 沖奈が口を尖らせたとたん、部室の引き戸が勢いよく開かれた。転げ落ちるようにして部室に飛びこんできたのは、第二文芸部の部長、初目ゆき(通称ジョンソン。以下ジョンソン)だ。ジョンソンは必死の形相で引き戸を閉じると、鬼気迫る形相で俺たちの方へ叫んだ。

「鍵! 鍵早く頂戴!」

「なんだこいつ」

「いきなり入ってきて失礼な女っすねー」

 俺たちはしらっとした目でジョンソンを見る。この女とは長年にわたる確執がある。どのような確執かはシェイクスピア的悲喜劇含めクソ長くなるため割愛するが、要するにジョンソンは俺の元彼女なのだ。根っからの文学少女であるジョンソンとは中学時代から交際を重ね、高校では俺が部長、彼女が副部長の立場で長らく文芸部を束ねてきたのだが、俺が百合に傾倒してからは関係が悪化し、彼女は造反を起こして部員の大半を率いて第二文芸部を新設、弑逆BANされた俺は失意のうちに唯一残ってくれた沖奈と細々第一文芸部を運営している。

 そのお家騒動以来、俺とジョンソンの仲は冷えこみ、SNSやメッセンジャーでさえ会話していない。正直、顔を見ると愛おしかった頃の甘美な記憶が想い起こされ涙が秒速五センチで落ちるくらい辛くなるので、なるべくなら顔を合わせたくなかったのだが。

 だが、当のジョンソンはそれどころではないらしい。沖奈から鍵をひったくると素早く施錠し、ドアを押さえこんでいる。

 と、誰かががつんど引き戸を殴る音がした。教師に注意された不良生徒が腹立ちまぎれにロッカーを蹴って教室を出て行くときのような音が響きわたる。その力は存外強く引き戸が跳ねあがってレールから脱線しそうになる。

「もっと強く抑えないと突破されちゃう! 師走さん、幾太郎手伝って!」

「もう! なんなんすか一体」

 訳もわからぬまま、彼女の気迫に圧されるかたちで加勢する。廊下から金属が触れあうような奇妙な擦過音が聞こえる。どうやら何者かがジョンソンを追ってこの部室へ押しこむ腹らしい。実に怪しからん。たとえ相手が合衆国大統領だろうとローマ法王だろうと部長たる俺の許可なしには一歩たりとも敷居を跨がせる気はない。

 と、引き戸の曇りガラスが割れ、中から黒々とした◎の一部が現れた。◎は中央を凹ませながら巧みに割れ目から部室内へまろび入ろうとしてくる。

「なんだこの妙な環は?」

「それに触らないで! ふれると◎が感染するわよ!」

 ジョンソンが鋭く制し、コロコロローラーで◎を絡め取る。そして掃除用のゴム手袋をして◎の絡んだ粘着シートを剝がすと丸めて引き戸の割れ目から外へ投げ捨てた。

「おい、ごみのポイ捨てはよくないぞ」

「刑法上の緊急避難よ」

 ジョンソンはすげなく言い放ち、割れた窓ガラスへダクトテープを目張りした。そして俺と沖奈に指図して、本棚を引き戸の前へ動かし、これまたダクトテープで補強した。まさにアメリカ人並のダクトテープ活用術である。

「立てこもるなら第一文芸部の部室で正解だったみたいね。本棚があればバリケードを築くのも簡単だし、ダクトテープもふんだんにあるし」

「なんであるんだよ」

「私が副部長のとき買い込んでおいたの。いざってときのためにね」

「おまえ部の書籍代をそんなことに……」

「ばかね幾太郎。パニック映画ファンとしてはダクトテープは必携なのよ? 実際、こうして襲われたときはすっごく役に立つでしょ」

 テープをバリバリしながらジョンソンはどや顔をする。その笑顔がキュートすぎて胸の奥がじくじく痛んだ。俺は女子の満面のどや顔にすごく弱いのだ。いわんや中学時代から惚れてきた元彼女のどや顔ともなればなおさらである。

「先輩、でれでれしない」

 沖奈がじと目で釘をさしてくる。

 本棚バリケードを築きあげると、彼女を追ってきた◎の群れは追跡をあきらめて方々へ散ってゆく気配がした。ぎちぎちした金属音が遠ざかってゆく気配がする。

「諦めてくれたみたいね」

「おい、あれは一体何なんだ?」

「◎よ」

「◎ってなんだよ」

「◎は◎よ。私にもそれ以上のことはわからない。ただの◎。そいつらが突然どこからともなくあらわれて、学校のみんなを襲い始めたの」

「◎に襲われるってなんだよ。抽象的ってレベルじゃねーぞ」

「……説明が難しい。外を見て」

 ジョンソンはこの現象について説明しようと苦吟するが、うまく言葉としてまとまらないらしく、あきらめて窓を指さした。(未完)

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